国民車構想から生まれたパブリカ
1963年10月、トヨタはパブリカ・シリーズにソフトトップ仕様を加え、コンバーチブルの名で発売した。UP-10Sの形式名を持つこのコンバーチブルのデビューとセダンのデラックス化で、不振を続けていたパブリカの販売は一挙に70%も増加したといわれている。
パブリカは、1955年4月に当時の通商産業省(現在の経済産業省)が、自動車産業の振興を目的として造り上げた「国民車育成要綱案」を発表したことに対応して開発が始められたクルマだった。「国民車育成要綱案」という通達は、来るべき日本でのクルマ時代を予見し、日本の社会や国情に適したクルマの開発を各自動車メーカーに促そうとするもの。主な内容は、①最高速度100km/h。②乗車定員は4名(ないし乗員2名と積荷100kg以上が可能なこと)。③平坦路で60km/hで定速走行したときに、1リッター当たりの燃費は30km以上であること。④10万キロの走行が可能な耐久性を備えること。そして、月産2000台程度とした場合、販売価格は25万円以下であること。⑤エンジンの排気量は350~500㏄程度とすること。などという内容だった。これらの条件は、決して現在の軽自動車に当てはめたものではない。今からおよそ70年前の日本で決められたものなのである。
各社から登場した国民車たち
「国民車育成要綱案」は、当時の日本の自動車メーカーにとって極めて厳しい内容だった。今日なら、リッター当たり30kmを走り、10万kmをノントラブルで走るクルマなど珍しくないが、1955年という時代では、それは絵空事に過ぎなかった。しかし、日本の自動車メーカーは厳しい条件にチャレンジした。その結果、出来上がったクルマが、1955年10月に発売された鈴木自動車工業(現スズキ)のスズライトSFであり、1958年5月に発売された富士重工(現SUBARU)のスバル360であり、1960年4月に発売された三菱500だった。そして、トヨタが完成させた「国民車」が1961年6月から発売されたパブリカだった。パブリカ(PUBLICA)という車名は、全国公募で1960年12月に決定された。応募数は100万通を超えた。PUBLICAとは、「国民」を意味するPublicと「クルマ」を意味するCarを併せた合成語である。
パブリカは、トヨタのモデルレンジでは最も小型のモデルとなっていた。3ボックススタイルの4人乗り2ドアセダン1種のみで、排気量697㏄の空冷水平対向2気筒OHVエンジン(U型、出力28ps/4300rpm)をフロントに縦置きして、4速トランスミッションを介して後ろ2輪を駆動する。トヨタが軽自動車としなかったのは、性能的に余裕を持たせたかったことと、トヨタは軽自動車を造らないというポリシーがあったためと言われている。