キリスト教は唯一神教だ。「父なる神」以外を信仰する人は異端者、異教徒として時には迫害されてきた。神々と共存してきた日本人にとって、キリスト教は外来宗教だ。

神学者ヤン・アスマン教授は、「唯一の神への信仰(Monotheismus)には潜在的な暴力性が内包されている。絶対的な唯一の神を信じる者は他の神を信じる者を容認できない」と説明する。唯一神教のキリスト教にとって自身の信仰、世界観が真理であり、他は異教徒だ。異教徒を弾圧するか、宣教して改心させるかの2つの選択肢しかない。唯一神教は排他的となり、神は「妬む神」と呼ばれた。

16、17世紀の江戸時代のキリシタン弾圧は、キリスト教自体がアスマン教授がいうように「教えの非政治化」がまだ実施されていない時代の話だ。すなわち、20、21世紀の過激なイスラム教と同じような立場だ。だから、江戸幕府はキリスト教宣教師を初めてみた時、「自身の世界を破壊する侵略者」と感じとったとしても不思議ではない。それ故、幕府は次第にキリスト教弾圧を強化していったのではないか。

一方、江戸幕府の要人、井上にとって懐に刀を忍ばせているキリスト宣教師たちを敵とみなし、その外来宗教を信じるキリシタンは抹殺しなければならない対象と写ったのだろう。井上にとって幕府は絶対的な世界だ。それを揺るがす外部からの侵略に対しては排斥する以外に幕府の安定を維持できない。結局、絶対的な世界観を有するキリスト教と絶対的な支配体制の幕府は衝突せざるを得なくなっていったわけだ。

同じ外来宗教の仏教、儒教などの宗教がキリスト教徒のような迫害を受けずに済んだのは、彼らは自身の教え、世界観を絶対視せず、社会の調和、統合を重視していったからではないか。もちろん、仏教でもその宗派間の対立、紛争はあったし、政治権力との癒着問題も生じた。その意味で、キリシタン迫害とは別の試練があった。

ちなみに、バチカン教皇庁は、日本のキリシタン弾圧について長年にわたって関心を寄せ、研究を進めている。その目的は、日本のキリシタンたちが経験した迫害の歴史を記録し、日本でキリスト教徒がどのように迫害されたかに関する文書や報告書を収集することだ。特に隠れキリシタンの信仰とその文化に関心を有している。隠れキリシタンがどのようにして信仰を守り抜いたか、彼らが用いた象徴や儀式の解明も行われているという。