それで、「一つの転機」と題された埴谷の選評のうち、以下の叙述が今日も、ドキリとさせる凄味があって――

ただこのまぎれもない見事な作品を読み終って、私はひとつの疑念を覚えた。

ヘロインもハシシもマリファナも《ロックとファックの時代》を支える鮮烈な支柱であるけれども、しかし、現代の鮮烈が、つぎの時代まで持ちこされず、忽ち次代の無力となることは、すでに遠い時代のプロレタリア文学における「連絡」や「留置場」のかたちを思い浮べてみただけで明らかである。

つまり、その時代の鮮烈な支柱をひとつひとつ取りはずされてゆくとき、この作者はどういう方向へ歩くだろうという一つの疑念が私に生じたのである。

『群像』1976年6月号、152-3頁 (強調と改行は引用者)

「連絡」というのはわかりにくいですが、戦前は共産党が非合法だったので、互いに偽名・匿名のまま通りすがりを装って行った街頭連絡(レポ)のことだと思います。当然ながら、やる側にとっては命懸けのものすごい体験になるわけですが、しかし時代が変わってしまうと、それを描いた場面を読んでも昂揚がまったく伝わらない。

こういう「連絡」の話ね。 ただし、これはゾルゲ事件が素材 (手塚治虫『アドルフに告ぐ』4巻)

横田基地そばのハウスでドラッグをキメ、洋楽に乗せてアブノーマルなセックスに溺れる村上龍の世界も、次の時代が来た途端にその「うおおおおおお!」な鮮烈さは薄れてしまい、「……こいつらなに盛り上がってんの?」としか感じられなくなる。そんな未来が待ってはいないか、と、埴谷は自身の体験から懸念を語ったわけです。

先日採り上げた椎名麟三と、文壇で盟友になる埴谷は、椎名と同じく1930年代に共産党員として逮捕され、転向して出獄しました。彼ら「第一次戦後派」にとっては、戦前のプロレタリア文学の挫折こそが創作の原点をなす一大事だったのですが、当初は自明だったそのリアリティは、まもなく読者に伝わらなくなってゆく。

なぜ、有識者は「言い逃げ」してはいけないのか|Yonaha Jun
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