広島平和記念公園の目の前に建設された「平和大通り(百メートル道路)」も、あまりの不評から、「地元で生まれ育った浜井のことだ、将来アメリカに復讐を果たすため飛行機の滑走路を秘密裏に作っているのだろう、そんな意図でもなければ到底理解できない」といった噂が流れた、という逸話が残っているほどである。
しかし浜井市長には、戦前に「軍都」として発展した広島が、復興を果たすためには、アイデンティティの再構築から時間をかけて行う必要がある、という確信があった。そのために、時間がかかっても、原爆の歴史を未来に向けた政策に転換させる「平和都市」のアイデンティティの構築が必要だ、と洞察していた。
広島は、年間1,229万人(令和5年)以上の観光客を受け入れており、ほとんどの観光客が広島平和記念公園を訪れている。そのため、浜井市長の政策が実利も伴った妥当なものであったことは、今日ではあまりにも常識だと考えられすぎている。ひどい場合には、原爆を落とすと自動的に平和都市が生産される、といわんばかりに考えている日本人が多すぎる。残念ながら、普遍的な平和主義を標榜した浜井市長らが、どれだけの苦労をしたかが、忘れられてしまっている。
2016年にオバマ米国大統領が広島を訪問した際に、沿道には多くの市民が立ち並んだ。中には涙を流している高齢者もいた。彼らがなぜアメリカの大統領を歓迎するのか、不思議がる人々も多いが、生活感覚としては、当然である。
アメリカを憎み続ける恨みの町としてではなく、普遍主義に基づく平和の町として、広島は復興した。その広島の偉業は、市民の誇りである。その偉業は、国際的に広く知られ、遂に当事者であるアメリカの大統領も認めるに至った。復讐せずして、アメリカに広島の偉大さを認めさせたのだ。その感覚が、市民にオバマ大統領を歓迎させた。
私は、外国人(欧米人のみならず発展途上国の紛争後国の人々など)を相手にして、日本の復興あるいは広島の復興の話をする機会を、数多く持ってきた。彼らの関心対象は、落された原爆の情報や、核廃絶の現状ではない。類まれな復興の歴史を作り出してきた広島の人々の苦悩と努力に、強い関心を持っている。