(本記事は、高橋芳郎氏の著書『アートに学ぶ6つのビジネス法則』=サンライズパブリッシング出版、2019年5月25日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

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草間彌生はいつから人気作家になったのか

作品が最も高額で取引される現存の日本人画家といえば、草間彌生です。

特に、近年の草間彌生作品の価格の高騰は、目を見張るものがあります。

例えば「かぼちゃのひるね」というシルクスクリーンの版画作品は、2011年には約24万円で落札されていましたが、2016年には約200万円になっています。

価格ばかりではありません。

2016年には文化勲章を受章し、2017年には国立新美術館で「草間彌生 わが永遠の魂」展が開催されるなど、政府にも認められた大作家になりました。

しかし、80年代の草間彌生は、そこまで有名ではなく、知る人ぞ知る芸術家の一人でした。

いつから誰もが知る人気アーティストになったのでしょうか。

1960年代、アメリカでヌードモデルを使ったハプニングアートを展開し、「前衛の女王」の名をほしいままにした草間彌生は、1973年、体調を崩して日本に帰国します。44歳でした。

具合が良くなればまたニューヨークに戻るつもりだった草間ですが、さまざまな病気を併発していて、幻覚などの症状もひどく、入院して病院に体調管理してもらうことになります。

実は草間は、1977年から現在までずっと、病院から制作スタジオに通う生活を続けているのです。

こうして、いやおうもなく日本で暮らすことになった草間でしたが、アメリカの現代美術運動を牽引した「前衛の女王」も、保守的な日本のアート界では無名の一アーティストにすぎませんでした。ヌードやハプニングといったアメリカでの活動が興味本位に受け取られた結果、日本ではまともに評価されない時期が続きました。

それでも草間彌生はぶれることなく、己の信じた道を邁進します。

もともと幻覚や幻聴から始まった草間の芸術活動は、病に侵されてもその輝きを失うことはありませんでした。

1978年に処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表すると、1983年には二作目の小説で野性時代新人文学賞を受賞するなど、言語を用いた活動にも幅を広げます。

しかし、バブル景気で明るく華々しいものが好かれる日本の風潮の中、草間彌生の強迫神経症的な作品には、なかなか光が当たりませんでした。

草間彌生の作品が見直されるようになったのは、90年代からです。

1989年にニューヨークの国際現代美術センターで回顧展が開催されると、過去の存在になりかけていた草間彌生は、一周回って目新しいものとして脚光を浴び始めます。

1993年には、ヴェネツィア・ビエンナーレにたった一人の日本代表として参加することになりました。ゲリラ的な参加を敢行した1966年の「ナルシスの庭」から27年の月日が流れていました。

本格的に草間彌生の再評価が始まったのは1998年のことです。「ラブ・フォーエバー:草間彌生1958~1968」と題された、世界各国を巡回する大規模回顧展は60年代の草間彌生の輝きを世界中に知らしめ、多大な観客を集めました。

21世紀になってからも、草間彌生の快進撃は止まりません。

2001年には日本で最も有名な現代美術の国際展覧会、横浜トリエンナーレへの参加。ここで草間は「ナルシスの庭」を発展させた「ナルシスの海」を横浜港で披露し、2000個のミラーボールが海上に浮かべられました。

2002年には、故郷の松本市初の美術館、松本市美術館の開館記念展に選ばれ、2003年には、海外の美術館で相次いで草間彌生展が開かれます。

そして2005年、クリスティーズNYのオークションで、「No.B,3」が、草間彌生の作品として初めて100万ドルを超えました。手数料込みで1億2582万円という価格は、現在から考えれば安すぎるかもしれません。

この2005年、オークションマーケットにおける草間彌生作品の合計落札額は43作品で約3億円と世界240位でしたが、10年後の2015年、草間彌生作品の合計落札額は464作品で約70億円と、世界42位の人気作家になりました。

2015年のサザビーズ香港のオークションでは、代表作「無限の網」シリーズの「No.Red B」が手数料込み8億4500万円で落札されました。

前年の2014年にもクリスティーズNYのオークションで、同シリーズの「White No.28」が8億2300万円で落札されており、安定した人気を感じさせます。

年を経ても失われない旺盛な創作意欲とチャレンジ精神、そして初期から一貫して続く、強迫的に繰り返し描かれる模様の蠱惑的な魅力、さらに水玉やかぼちゃといったモチーフのポップさが受けて、草間彌生は人気作家に躍り出ました。

2019年現在には90歳になる、この稀有な日本人作家が、今後どのような作品世界を見せてくれるのか、目を放すことができません。

なぜ名画の価格はこんなに高いのか?

2017年11月15日、ニューヨークのクリスティーズ・オークションで、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「サルバトール・ムンディ」が美術品史上最高額で落札されました。

その価格は手数料込みで4億5030万ドル( 約508億円)です。

これまでの落札最高金額は、2015年に同じくクリスティーズNYで落札されたピカソの「アルジェの女たち(バージョンO)」で手数料込み1億7900万ドル(約215億円)でした。一気に2倍以上の価格更新になったので、市場は大きな興奮に包まれました。

ダ・ヴィンチの「サルバトール・ムンディ」の価格500億円とはどれくらいの金額でしょうか。わかりやすいのは、プロ野球オリックス・バファローズの本拠地、大阪ドーム(京セラドーム大阪)の建設費が約498億円です。スポーツスタジアムが一つ建てられるくらいの金額ですね。

ピカソの「アルジェの女たち」の200億円でも、千葉ロッテマリーンズの本拠地、千葉マリンスタジアム(ZOZOマリンスタジアム)の建設費はまかなえます。それほどの巨額が、1枚の絵画を入手するために投じられているのです。

ちなみにデ・クーニングの「インターチェンジ」は3億ドル(約360億円)と報道されていますが、これはオークションではなく個人売買なので、落札価格の記録とは無関係です。

ダ・ヴィンチの絵画の価格が高騰した理由の一つは、その稀少性にあります。レオナルド・ダ・ヴィンチは15世紀のイタリア・ルネサンス期の巨匠ですが、建築や工学などの分野でも腕をふるったために、絵画作品は意外と多く残っていません。

現存するダ・ヴィンチの絵画は15枚、多くても20枚に満たないとされています。当然、その作品が市場に売りに出されることは滅多になく、オークション前から話題を集めていました。

もう一つの理由は、その名声にあります。美術史上で最も有名な絵画を挙げろと言われれば、候補はいくつかありますが、ダ・ヴィンチの「モナリザ」が最右翼になるのではないでしょうか。

落札された「サルバトール・ムンディ」は「モナリザ」の男性版と言われることもあり、誰もが入手したいと思うような絵画でした。ありえない話ですが、もし「モナリザ」そのものがオークションに出たら、その価格は今回の何倍、何十倍になるかもしれません。

三番目の理由は、時の運です。絵画にはもちろん相場があります。ダ・ヴィンチの「モナリザ」といっても、日本やアメリカの国家予算規模の価格がつくことはありません。それだけの金額を支払える買い手はいませんし、いたとしても1枚の絵画に使えるとは限りません。

オークションの場合、買い手はだいたいこれくらいの価格で落札したいとの予算をあらかじめ持っています。そして、予算以上に価格が高騰すれば、あきらめるのが通例です。

しかし、二人以上の買い手が落札を競った場合、競争意識から、しばしば相場や予算を超えて金額がヒートアップすることがあります。今回もオークション会社の見積価格を大幅に超えたのは、競りの魔力が働いたと言えるでしょう。

四番目の理由は、資産価値です。ダ・ヴィンチの絵画のように有名で稀少性の高い作品の場合、その価値が減じることはほとんどありません。

オークションの史上最高価格が年々更新されているように、世界経済の拡大とインフレに伴って、絵画の価格も上昇することが見込まれています。

もちろん、世界恐慌が起きて大幅なデフレになれば、絵画を含めてすべての資産価値は下落するでしょうが、それでも、欲しかった作品を所有して眺める喜びは残ります。

最後の理由は、歴史の持つ力です。世界遺産とも呼べるような芸術作品は、年を経るにつれてその価値を漸増させていきます。なぜならば、1000年前の建築、500年前の絵画は、二度と同じものが作られないからです。

レオナルド・ダ・ヴィンチと並び称されるくらいの天才はこの先も現れるかもしれませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチ本人は二度と出てきません。歴史的な文化遺産であることは、その絵画の価値をこの先もずっと保証してくれるでしょう。

とはいえ、絵画購入にはいくばくかのリスクもあります。それは、盗難や災害による消失のリスクと、後に贋作であることが判明するリスクです。

実際、ダ・ヴィンチの「モナリザ」は1911年にルーヴル美術館から盗まれたことがあります(後に発見されて戻りました)。

戦前に日本にあったゴッホの「ひまわり」は、空襲で焼失したと言われています。

また、2008年には、ドイツのケルンで最も長い歴史を持つヴァルラフ・リヒャルツ美術館が、所蔵しているモネの絵画を修復作業中に、贋作であることが判明したと発表しました。通常、所有者は作品が贋作であることを認めたがらないものですが、さすがにアカデミックな美術館は違いますね。

どのような絵画の値が上がるのか

2015年に約1億7900万ドルで落札されたピカソの「アルジェの女たち(バージョンO)」(1955)は、当時のオークションの高額落札記録を塗り替えた絵です。

しかし、完成直後の1956年に、ピカソからコレクターに売却されたときの価格は、たったの21万ドルでした。60年間でその価値は850倍以上になったのです。

もちろん、当時のピカソはすでに巨匠でしたし、21万ドルの絵画は決して安い買い物ではありません。

1956年当時は、ピカソが値上がりを続ける作家かどうか、まだわかりませんでした。購入者には先見の明があったと言うべきでしょう。

個人が所有する有名絵画は、所有者の死去などによって何度も繰り返し売却されます。

次は、価格の変遷がよくわかるピカソの「夢」(1932)について調べてみましょう。

記録をさかのぼると、まず1941年に7000ドルで個人コレクターが購入しています。まだピカソも若く、お手頃な価格でした。

コレクターはこの絵画を気に入り、その後も手放すことなく持ち続けましたが、死後に遺族によってオークションに出品されます。1997年のことです。この時は約4840万ドルで落札されました。56年間で、その価格は7000倍になったのです。

さらに落札者は4年後の2001年、個人間取引でこの絵を売却してしまいます。価格は2割増しの約6000万ドルでした。4年間所有して楽しんでから高額で転売できたのですから、投資としては大成功です。

新たな所有主も、12年後にこの絵を売却します。やはり個人間取引でしたが、その価格は1億5500万ドルでした。購入価格から約2・6倍になっています。

ポイントは、一度たりとも価格が下落していないことです。ピカソの絵画の価格相場が上昇を続けたこともありますが、美術史に残るような名作にはハズレがないのです。

値が上がるのはピカソばかりではありません。近年、再評価の波が著しい藤田嗣治も、その価格の上昇度合いには目を見張るものがあります。

1930年の作品「裸婦と猫」は2014年のサザビーズ(ロンドン)にて、約2億円で落札されました。そのわずか2年後の2016年、再びサザビーズ(香港)に出品された際には、約5億7000万円で落札されたのです。2年間でその価格が約3倍になったのは、記録的な出来事です。おそらく、この間に藤田嗣治の人気がうなぎのぼりになったのでしょう。

この事例からわかるのは、絵画の価格が世間での評価や人気と連動することです。とあるオークションで高額落札されればその作家の価格相場が跳ね上がりますし、逆に低額で終われば、その作家の価格相場は下がってしまいます。

ですから、力のある画商はしばしば推している作家の作品をオークションで高額落札して、その作家の価格を支えています。逆に言えば、大手画商が力を入れている作家の場合、世間的な人気よりも価格相場が上がっている可能性があります。

まだそれほどの実績がない現代作家の作品が、話題性だけで価格が高騰することがありますが、その人気が本当のものか一過性のものなのか吟味する必要があるでしょう。

私は、作家の価値は死後30年を経て定まると考えています。

例えば、1980年代に非常に人気のあったマーク・コスタビという現代美術家をご存じでしょうか?当時、やはり世界的に有名なロックバンド、ガンズ・アンド・ローゼズのアルバムジャケットを手掛けるなどメディアの人気者でしたが、30年後の現在、あまり名前を聞かなくなりました。2019年現在、日本ではWikipediaに項目すらないのです。

もちろんコスタビは今もなお現役でアーティストとしての活動を続けています。その作品も決して悪いものではなく、好きな人は好きでしょう。しかし80 年代の世界的な熱狂は既になく、作品も当時のような価格では売れません。

このように、存命画家の場合はメディアでの流行に人気が左右されるので、価格も浮き沈みが避けられません。安い時に購入できれば高く売り抜けることができますが、高値掴みをしてしまうと不良債権になります。

それでは、逝去した画家の作品であれば安心かと言えばそうでもないのです。

一般に画家が死去すると、新しい作品が供給されなくなるために価格は上昇すると考えられていますが、実態はその逆で、通常は価格が下がります。

というのも、画家も生存中は、新作を発表したり個展を開催したりと何かと宣伝活動をするもので、そのために人気も下支えされるからです。

ところが、一番のスポークスマンだった画家本人がいなくなると、どうしても露出は減ります。つまり、宣伝が少なくなって作品の力だけで評価されるようになるため、徐々に人気が下がっていくのです。遺族やファンや在庫を抱えた画商がいるうちは、それなりに価格も維持されます。しかし、死後30年も経つと生前の画家を知る人も、当時の人気を語る人も少なくなって、純粋に作品だけが残ります。そうなっても評価されている作家だけが、後世に名を残していきます。

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高橋芳郎
株式会社ブリュッケ代表取締役。1961 年、愛媛県出身。地元の高校を卒業後、1979 年、多摩美術大学彫刻家に入学。1983 年、現代美術の専門学校B ゼミに入塾。1985 年、株式会社アートライフに入社。1988 年、退社、独立。1990 年5 月、株式会社ブリュッケを設立。その後、銀座に故郷の四国の秀峰の名を取った「翠波画廊」をオープンする。2017 年5 月、フランス近代絵画の値段を切り口にした『値段で読み解く魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎)を出版。

 

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