小池氏とハーテム氏の関係を“政府系新聞”から読み解く

政府系新聞アハラーム紙の記事(2016年8月3日付)で「小池氏は非常に特殊な女性である。ハーテム情報大臣の支援を受け、彼女は社会学科を卒業。彼は小池を自分の子供のようにみなしていた」(抜粋)とある。

小池氏自身も同紙インタビューで、ハーテム氏は「私のエジプトのパパ」「私のスピリチュアル・ファーザー(守護者)」などと複数回、語っている。

例えば、2004年3月2日付けのアハラーム紙では「カイロ大学時代の教授陣(複数形)は?」の質問に対して、「私の教授はアブドゥルカーデル・ハーテム博士で、私にとってエジプトの父です」と答えている。

普通、教授陣の名を聞かれれば、専攻学科(小池氏の場合、社会学科)の恩師や少なくとも印象に残っている先生について語るものだが、小池氏は違う。カイロ大学の教授ですらないハーテム氏の名をあげるのみだ。

ハーテム氏は当時、エジプトの副首相(情報担当)であったが、2人は一体、どういう関係だったのか。

「ハーテム氏に面倒をみてもらい、小池氏はカイロでの留学中のかなりの期間、ハーテム家で家族と子供たちと住んでいた」(アハラーム紙2011年9月3日付)

つまり、同居していたのだ。小池氏が1976年、カイロを後にしたのちはどうなったのか。アハラーム紙が記録に残している。

「ハーテム氏と学生から政治家、そして大臣になった彼女の関係は、カイロの地で途切れたわけではない」(同上)

「彼女はスピリチュアル・ファーザーと呼ぶハーテム博士(中略)と常に連絡を取り合ってきた」(同)

「小池氏は2003年2月から日本の環境大臣であり、日本の内閣でイスラム教の寛容性を説いているとハーテム博士に語った。博士は彼女から連絡を受けることをうれしく思っている」(アハラーム紙2004年6月21日)

「(小池氏が今回、カイロにきたのは)ハーテム博士から(2011年)8月に掛かってきた電話でのリクエストがあったからだ」(同紙2011年9月3日付)

「彼女は学生時代に過ごしたハーテム家で家族や孫たちと再会した」(同上)

「そこで小池氏は、ハーテム博士に対して、エジプトやエジプトの友人のために奉仕するプロジェクトを話題にした」(同)

以上が、小池氏はハーテム氏の“後ろ盾”で卒業、その後も二人の関係は継続し、エジプトに何かしら貢いでいたことをエジプト政府(系新聞)が公認した内容である。

「カイロ大学の声明」を出した組織の正体とは

公認といっても、所定の学業を修めたという普通の意味での卒業ではない。卒業と記すアハラーム紙はハーテム氏が最高執行委員を務めていた新聞である。

もちろん、ただの新聞ではない。彼が創設したエジプトの国家情報部の従属下におかれた「政治機関である」(国家情報部ウェブサイト上の『ハーテム回想録 10月戦争政府の首長』紹介ページ。筆者注:第四次中東戦争のこと。ハーテムは戦時中、首相代行を務めた)。記事はすべて、政治的意図をもって書かれた声明なのだ。

カイロ大学と国家情報部———この権力構造を裏返せば、真相が浮彫りになる。“小池氏の卒業”とは、カイロ大学ではなく、国家情報部の公認という意味になる。では、国家情報部の上部機関はどこか。エジプト大統領府、つまり、軍閥のトップ・シシ大統領である。カイロ大学長の任命権は誰にあるか。同じく、シシ大統領である。

この権力のピラミッド構造がわかれば、さらには、6月8日に出された「カイロ大学の声明」を出した組織の正体、そして声明の真の意味が読み解ける。

声明の全文を引用しておく。

「カイロ大学は、1952年生まれのコイケユリコ氏が、1976年10月にカイロ大学文学部社会学科を卒業したことを証明する。卒業証書はカイロ大学の正式な手続きにより発行された。遺憾なことに、日本のジャーナリストが幾度もカイロ大学の証書の信憑性に疑問を呈している。これはカイロ大学及びカイロ大学卒業生への名誉棄損であり、看過することができない。本声明は、一連の言動に対する警告であり、我々はかかる言動を精査し、エジプトの法令に則り、適切な対応策を講じることを検討している」

この声明は、大学公式サイトではなく、外交ルートである在京エジプト大使館のフェイスブックに掲載されたものだ。注目すべきは後段である。「本声明は、一連の言動に対する警告」と目的がはっきり書かれている。卒業証明ではない。その根拠を一切示さず、証書の信憑性に疑問を呈する“日本のジャーナリストへの脅迫”目的の声明なのだ。

外国ジャーナリストを取り締る権限のあるエジプトの管轄官庁といえば、どこか。答えは国家情報部である。軍閥専制国家であるエジプトにおいて、越権行為は許されない。カイロ大学は声明の“表の顔”に過ぎないというわけだ。