■逮捕、そして……

 1762年に逮捕されたダリヤは、その後6年にわたり拘留され、取り調べを受けた。だが、彼女は反省の色など示さないどころか、自分が罪に問われることはないと確信していた。その一方、犠牲者の身内や生き残った農奴たちも、万が一彼女が戻ってきた時のことを恐れて証言を拒んだ。

 それでも司法調査官らは地道に捜査を進め、ダリヤの領地で過去わずか6~7年間に138人もの不審な死者が出ていることを確認した。そして、そのうち38人の女性の死がダリヤによるものだと調べ上げ、裁判で有罪を勝ち取ったのである。

 有罪になったとはいえ、伯爵夫人にどのような罰を与えるべきかという難しい問題が残された。エカチェリーナ2世は貴族からの支持を必要としていたからだ。とはいえ、罪の内容が内容だ。死刑はすでに廃止されていたので、最終的にダリヤには終身刑が言い渡され、称号や地位、財産を奪われ、モスクワの修道院に幽閉されることが決まった。

 1768年10月2日、ダリヤはモスクワ・赤の広場でさらし者にされた。首に「この女は拷問を加えて人を殺した」と書いた板がぶら下げられ、一時間にわたって見物人たちの好奇の目と嘲笑にさらされたのである。彼女を見るため、大勢の人々が赤の広場に集まったという。

 その後、ダリヤはモスクワのイワノフスキー修道院の地下牢に入れられた。窓もなく真っ暗な地下牢で24時間の監視下に置かれ、食事の時以外はロウソクの灯りすらないという過酷なものであった。

 11年後、ダリヤは修道院の別の部屋に移された。その部屋には鎧戸のついた窓があったが、好奇心から覗き込む者に対し、彼女は唾を吐きかけたり棒を突きつけたりして悪態をついた。どうやら精神を病んでいたらしいが、それが長年の監禁生活によるものなのか、もともと持ち合わせていた病が悪化した結果なのかは分からない。

 1801年(1800年という説もある)11月27日、71歳のダリヤは牢の中で死んだ。遺体はモスクワのドンスコイ修道院の墓地に葬られたという。

(編集部)

参考:「Wikipedia」、「The Famous People」、「Russiapedia」、ほか

※当記事は2019年の記事を再掲しています。

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提供元・TOCANA

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