これまで、海外移住をして節税した暗号資産投資家のインタビュー記事をいくつか書いてきました。ただ、大学院でドクターを取得して大学で教えていた研究者の方、海外で新技術とコインを開発するエンジニアの方など、キラキラしている方ばかりで参考になりにくいとのコメントも頂きました。
そこで今回は趣向を変え、ブラック労働の生活から暗号資産投資で人生を変えて海外移住したAさんさんに話を聞いてみました。
就職氷河期、March卒だったがブラック先物業者しか就職先がなかった!――経歴を教えてください。
Aさん:私はMarch(明治・青山・立教・中央・法政)の法学部を卒業しました。
――March卒業であれば学歴フィルターを突破できますから、就職は困らなかったでしょう。
Aさん:私は1993年入学の1997年卒業。就職氷河期のど真ん中で、就職先が無い学生だらけでした。かろうじて入社できたのは先物会社で、営業をしていました。
――何を扱っていたのですか?
Aさん:大豆、トウモロコシ、ゴムなどです。証券会社や保険の営業はきついと言われますが、彼らはきちんとした商品を売っています。一方、うちの会社のお客さんで、儲かった方を見たことがありませんし、自己破産に追い込まれたお客さんもいたようです。だから、証券会社や保険と比べても、営業のきつさは段違いだと思います。
――どういう営業手法だったのですか?
Aさん:テレアポをしてアポを取れたら、その方のお宅に行き、粘って契約してもらうのです。でも、電話をかけてもほとんどガチャ切りで、アポをとれるのは、100件のうち2件くらいでした。
テレアポは苦痛でしたが、電話をかける手が止まると、上司が灰皿とかゴミ箱とかを投げてくるんです。イスとか机なんか、蹴り飛ばされていましたね。だから、会社の壁は穴だらけでしたし、机もイスもぼこぼこで原型をとどめていませんでした。1か月受注ゼロの社員は、「私は役立たずの給料ドロボーです。申し訳ありません。」と土下座して社内を回るのです。殺伐とした雰囲気でした。
――よく仕事を続けられましたね。
Aさん:退職者続出でした。同期28人のうち3か月で半分が辞めました。1年後に残っていたのが7人くらい。就職氷河期で、退職したら行先が無いことが分かっていても、体が拒絶反応を起こして続けられないんです。私は、ふだん酒を飲みませんが、日曜日の夕方からは、翌日からの地獄が憂鬱で、酒を飲まないとやっていられませんでした。
――何年続けたのですか?
Aさん:2年でした。その時点で、同期で残っていたのは私を含め4人でした。サッカー部で上下関係や厳しい練習に慣れていたから2年間耐えられたのでしょう。それでも、最後の頃は、通勤して会社に近づくだけで、まぶたが痙攣するようになって、このままだと死ぬなと思って辞めました。
2年で獲得したお客さんは10人でしたから、いい営業マンではありませんでした。でも、お客さんが損するのが目に見えていますから、良心がとがめて売りにくかったです。私が辞めた2年後には会社が潰れたと聞きましたから、まともなビジネスではなかったのでしょう。