カリスマの魅力
1868年に始まった戊辰戦争を経て幕府は倒れ、明治政府が始動します。この戦争で功を上げたものは、多くの地位や名誉を手に入れました。
西郷もその一人です。明治の政治家の給与は相当なものだったらしく、毎月レンガのような札束が西郷の家にも積まれていたそうです。
しかし、そんな西郷も明治維新後は不遇が続きました。政治政権が樹立すると、公家である岩倉具視を中心に西洋社会を学ぶため、歴史的に見ても異例の使節団が1年10カ月もの海外視察に向かいます。不参加だった西郷は、その間にアジア外交において征韓論を掲げましたが、西洋諸国を見て帰ってきた伊藤や大久保は、今はそれどころではないとこれを退けます。
ここからの証言は諸説あり、まだまだ不明なところはありますが、知人である大久保によると「へそを曲げて」薩摩に下野してしまいます。野良仕事をして過ごすと帰った薩摩での生活でしたが、周りが西郷を放っておくはずがありません。
薩摩藩には、「郷中制度」と呼ばれる独特の教育制度がありました。若者の寄り合いで、村の人間は一定の年になるとそこに入り、学問や防災、遊びまでさまざまなことを学びます。トップは任期制ですが、若い頃、西郷は決まった任期を超えても周りから強く頼まれ、指導に当たっていたそうです。
郷里では若者の代弁者、カリスマ的な存在として尊敬の念を集めていました。戊辰戦争などの倒幕戦争で手柄を上げられずにくすぶっていた若者たちが、下野した西郷の下に次々に集まってきました。きっと毎晩の様に酒を酌み交わし、「一旗揚げて日本を変えてやるんですよ。西郷先生、一緒に戦いましょうよ」と吠える若者たちを、西郷は優しい目で見守っていたのでしょう。
しかし、血気盛んな若者たちの歯止めが、だんだん利かなくなってきました。
当時の薩摩は独特な運営体制を保っていました。独立国家のような存在で、独自の政治を維持していたのです。行政や警察、軍を動かしているのは私学校と呼ばれる組織で、前述の悶々とした士族の若者たちの集団であり、あるときそれが軍を使い、反体制のテロを起こしました。若者たちが政府に対して最初に暴動を起こした際、西郷はその一報を聞くや「しまった」とこぼしたそうです。
大久保も、西郷は若者に好きにさせるが最後は喝を入れて止めるだろうと考えていたそうですが、それがまさか自らも死を決意して熊本城開城のための戦闘に加わったのですから驚いたことでしょう。これが西南戦争です。
そのとき、大久保は西郷を止めるために鹿児島に向かおうとしますが、伊藤博文に諭されて東京に残りました。伊藤は、大久保が身を挺して西郷を止め、二人で自害するのではないかと心配したと言われています。
結果的に西郷の振った旗の下で多くの人間が命を落とし、熊本の町は焼け野原となりました。
西郷の元部下で、この戦いでは政府軍として戦った川路利良は、西郷の屋敷が燃えているのを双眼鏡で覗きながら「西郷どんの屋敷が燃える。愉快だ愉快だ」と言いつつも大粒の涙を流したと伝えられています。敵となった人間に、最後まで惜しまれつつ歴史の露と消えた西郷隆盛がいかに偉大な人物であったが分かる話です。
周りから見た西郷坂本龍馬は、西郷のことを「大きく打てば大きく響く。小さく打てば小さく響く釣鐘」と巧みに表現しています。しかも相手が誰でも大きく打てば大きく響くのです。
西郷は、島流しにされたときに離島で出会った少年を、その熱意に応えて京都へ連れていったこともありました。また、幕府から命を狙われた同朋の僧月照が、このまま捕らえるくらいなら自害すると逃亡中の船上で西郷に告げると、西郷が躊躇なく一緒に海に飛び込んだ話は有名です。
威圧感のある外見と裏腹に、普段は偉ぶらす、にこにこしていて明るい人物だったと伝えられています。英国外交官アーネスト・サトウからは、ファーストインプレッションは「良い感じの人物だが、どんくさそうで少々持て余す」と評されています。
しかし、いざというときの西郷は違います。サトウから、イギリス海軍の支援を提示されたとき、西郷は毅然として断ったと伝えられています。その対応は、独立国家としての日本の未来を決定づけました。外交というものの考え方がほとんどなかった当時の日本においては、極めて優れた対応でした。そこからサトウは「日本人の中で最も特筆する人物がいるとすれば西郷隆盛」だと言うようになるわけです。
ユーモアもあり、相手がどんな身分の人間でも真剣に向き合う、そしてあの巨漢が安心感にもなったのでしょう。上野公園の西郷隆盛像には威厳よりも優しさと親しみやすさがにじみ出ています。そこに人は惚れて付いていきます。
そんな西郷のカリスマ性が歴史を変えた瞬間は、まさに明治維新の倒幕のシーンです。戊辰戦争で江戸城を戦火から守り、抗戦する幕府軍を徹底的に叩き潰しました。その後、前述の征韓論、南北戦争の件になっていくのですが、倒幕を果たした後に西郷はこう語ったそうです。
「自分は壊すのは得意だが、つくるのは苦手だ」
目標無きカリスマの悲劇西郷は日本を変えていくという高い志を持ち、多くの人間を感化して、倒幕という一つの目標を達成しました。しかし、その後は一時目標を失い、「つくるのは苦手だ」と弱音を吐いています。征韓論を唱え再び目標をつくりましたが、それは否定されてしまいました。
そのとき、時代にあった目標を設定できないリーダーは失格だと自分で悟ったのではないでしょうか。何度も止める大久保を振り払い下野したのは、おそらく本当にリーダーを引退するつもりだったのだと思います。
しかし、郷里で自分の理想や想いを語り、その意思を引き継いでいく人間がいてくれればと若者に関わっていきます。そこで語られる夢や理想は、成り上りたい若者の欲望をさらに掻き立てて、その暴走を引き起こしていったのだと想像します。
リーダーは夢や理想を語るだけではいけません。向かうべきゴールをまず目の前に見据えなければならないのです。そして、それが時代に必要なものなのかを判断し、自らに付いてくる者たちを導く責任があります。それなのに、西郷の配下の若者たちは、勝手に暴走していってしまいました。なぜ西郷は止められなかったのでしょうか。
実は征韓論のときも、西郷は戦争をするわけではなく、自ら外交のトップに立ち、対話での解決を主張していました。戦いを積極的に望む人物ではありませんでした。
しかし、西郷は強く打てば強く響いてしまうのです。若者の思いに打たれて動き出してしまいます。そして、どこかで死ぬことでしかけじめをつける方法がないと考えたのかもしれません。そこもまた西郷隆盛の魅力ではあるのですが。
リーダーにはときに決断が必要です。ただ担がれるだけの象徴に過ぎないリーダーは、組織を間違えた方向にも引っ張ってしまいます。リーダーは常に目標を定めてその実現の責任を負いながら決断を繰り返し、前に進んでいかなければなりません。