1945年3月26日には硫黄島が米軍の手に落ち、本格的な日本本土への空襲が可能になります。そして、6月になると、それまでの何倍もの規模で、地方の大都市や軍事都市までが爆撃目標となりました。

図1 硫黄島を失ったことによる影響文浦史朗『図解雑学 太平洋戦争』を参考に作成 地図の出所

実は、そんな絶望的な状況は前年から予測されており、国民の間でも噂になっていたとのこと。山本智之氏の『「聖断」の終戦史』によると、1944年12月頃から、戦争を遂行できる限界は1945年6月頃という「6月終戦説」が民間にまで流布してきたそうです。

これに先立ち、すっかり敗色が濃くなった1944年には、多くの国民は大本営発表が信じられなくなり、厭戦気分が高まってきます。

昭和十九年に警保局保安課第一係が作成した「最近に於ける不敬、反戦、反軍其の他不穏言動の概要」を見ると、「戦争は陛下が勝手にやつてゐる」「天皇陛下は飾り物でこんな物は穀潰しだ」「大東亜戦争停止 戦争停止」「打倒東条 打倒軍国主義」「幾万の同胞の生命物資を消費して何が聖戦でせうか」というように、天皇への反感や不満、反戦・反軍の落書や投書が多く収録されているのである。

これらを裏付けるように、『「空気」の研究』でも、最高戦争指導者会議のメンバー6人(総理大臣鈴木貫太郎、外務大臣東郷茂徳、陸軍大臣阿南惟機、海軍大臣米内光政、参謀総長(陸軍)梅津美治郎、軍令部総長(海軍)豊田副武)は、本音では降伏は不可避と考えていたとして、次のような記述があります。

みな内心では、だれかが「降伏しよう」と言い出してくれないかと、それだけを心待ちにしていた。いわば、「陸軍が始めたのだから陸軍が言い出すべきだ、今日言うか、この次に言うか」と一方が梅津参謀総長に期待すれば、御当人は「軍人は最後までそれが口にできないのだから、だれかが言ってくれないとこまる。外務大臣は言わないのだろうか、今日言うか? 明日言うか?」期待し合っていた状態である。

しかし、現実にはそんなにスムーズに事は運びませんでした。その後の度重なる空襲で日本全土が焼け野原と化し、1945年8月初めに2発の原爆が投下され、ソ連の侵攻があったにもかわらず、終戦の決定は8月14日まで遅れたのです。

図2 広島への原爆投下

なぜでしょうか?

終戦は「空気」で決まったのか

結論から言うと、これは慎重に周囲の「空気」を読んでいたからであり、その意味では終戦の「御聖断」も空気には逆らえなかったということになります。確かに、こう考えると、空気の影響は首尾一貫しているのです。

ここで、現実の経緯を追ってみましょう。

梅津参謀総長は、あたかも6月終戦説に合わせたように、1945年6月9日(11日説もある)になると、昭和天皇に本土決戦を行う戦力が事実上ないことを上奏。このことを受け、昭和天皇は6月22日に最高戦争指導会議を自ら招集し、戦争の終結に「努力せんことを望む」と述べました。

ポイントは、昭和天皇が最高戦争指導会議を「自ら招集した」という点で、これは極めて異例なことです。

そして、この時点でやっと終戦の方向に転換が始まり、不可侵条約を締結していたソ連に講和の仲介を依頼することになります。

では、昭和天皇は6月の梅津参謀総長の上奏まで、不利な戦局をまったく知らなかったのか。まさか、そう信じている人はいないでしょう。

1945年4月、首相就任を固辞する鈴木貫太郎に対し、昭和天皇は「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この国家危急の重大な時期に際して、もう人はいない。頼むから、どうか、曲げて承知してもらいたい」とまで言って頼み込んでいるのです。言うまでもなく、この人事は明らかに終戦処理を考慮したものです。

もはや真相は明らかというしかありません。

1945年の昭和天皇は、戦況は極めて不利で、内心は降伏もやむを得ないと考えていたが、そう言い出せる空気ではなかった。そこで、最大の障害となる陸軍に「降伏やむなしの空気」が醸成されるまで辛抱強く待ち、6月9日にこの空気を確認した後、速やかに6月22日に最初の(事実上の)終戦の「御聖断」をしたということになります。