自己責任論
一方で、共産主義者や社会主義者が選択した言葉に「主体」というものがある。サルトルもハイデッガーもデカルトだってこの「主体」についての見解を残している。
主体とは誰でもないあなた自身ということだ。あなた自身が考え行動したことは、それ以上でもそれ以下でもなく、また他の誰かが取って代わることも出来ない「存在」論だ。「我思う故に我あり」というやつだ。マルクスのように「すべてのものを疑え」と言われても仕方ないじゃないか?あれこれ悩みあれこれ考えあぐねた結果をもたらしたのは、他でもないあんた自身やろ?ということを存在証明としている。
サルトルが提示した存在論的主体を「私」であるあなたに求めるという暴力は、所謂、右翼的自己責任論とは観察者と考察者の立場的な違いを意味している。つまり、存在論としての自己責任論は客体である他者が「私」への責任を求めることだ。保守的思想、右翼的思想は自分自身である「私」の中に主体と客体を持ち込み、自分自身が自分自身である「私」に対して責任を負い、かつ、問うことになる。
三島由紀夫は自衛隊蜂起を語りかけたが、組織的な、従属関係としての上司と部下の関係性において、また国家護持の責任を負う自衛隊員が、法的曖昧さの中で自己責任を押し付けられていていいのか?という問いかけであり、三島の言葉はある種の幼稚さを以て捉えられたかもしれない。
しかし、三島自身は、「私」が存在している国家と自分自身を分断してはならないと考えていたのかもしれない。その「檄」の中には、国家とは何か?という三島の素朴な問いがある。その問いの源泉は、国家と自己との関係性における自己責任を問うている。お前ら自衛隊員が警察の一部などと曖昧模糊とした誤魔化しの中で存在していていいのか?と自衛隊員自身に問うたのだ。
自衛隊員にしてみれば、戦争が終わり、新しい国家感、国民感を記した日本国憲法において兎にも角にも今の自分たちの立場があり、それはそれで国家と国民を憂う責任論の具体として自衛隊員という立場があるのであり、政治家でもない三島が何を言おうが、お前の言ってることだって所詮は他人事だろ?という思いがあったかもしれない。
三島は大事を引き起こした責任と、国家を憂う憂国の志士の生き方として自決の道を選んだ。右翼的表現を借りれば、それこそが右翼的自己責任の完結の一つの在り方だと三島が考えていたとも言える。三島にとっての「一人一殺」は自己への責任の取り方だったかもしれない。
正にそれは、あまりに日本人的な責任の取り方だ。誰にも裁かれない。「私」は「私」の名において自己で全てを完遂するという責任の取り方だろう。
フーコーの言う社会と国家を構成する人間への期待を込めた「規律(ディシプリン)」的社会秩序というか決まりごとというか、まあ、これをちゃんとしておけば間違いねえんじゃね?という淡い希望は、ソヴィエト崩壊、東欧の社会主義国の崩壊、中東紛争、アフリカ内戦、サリン事件、911テロ、阪神淡路大震災、東日本大震災で脆くも崩れ去っている。人間は弱き者であると、証明されてしまった。
■
以後、
・法治国家とは?
続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。