オーストリア学派の具体的な解説のため、今回はアメリカの保守系シンクタンク「ヘリテージ財団」の経済研究フェローでもあるPETER ST ONGE氏の2023年11月11日の記事「What is Austrian Economics?(オーストリア学派の経済学とは何ですか? )」を翻訳(一部意訳)して紹介しようと思います。

※元の記事は以下から全文が読めます。 ※目次と太字は筆者です。

What is Austrian Economics?

What is Austrian Economics? オーストリア学派の経済学とは何ですか? 1. 自由の経済学The Economics of Liberty

私が世界を理解するために使っているモデルであるオーストリア経済学について、いくつか質問を受けました。オーストリア経済学はあまり知られていないので、主流派経済学とどう違うのかを説明してみようと思います。

端的に言うと、オーストリア経済学とは、政府からの賄賂がない経済学を意味します。

そして、政府からの賄賂がなければ、経済学は自由を最前面に据えた、まったく異なる経済モデルを提供します。

2. 主流派経済学による乗っ取り

経済学の歴史は古く、少なくとも16 世紀にスペインのスコラ学者たちによって「古典的」モデルが確立されて以来です。

しかし、1800年代から経済学の分野は、プロイセンをはじめとする政府によって利用されるようになりました。彼らは経済学を使って経済を乗っ取り、銀行家、実業家、その他ロビー活動予算を持っている人たちなら誰にでも素晴らしい利益をもたらすことができる便利な宣伝者にできると考えたのです。

経済学者は、マレー・ロスバードの言うところの、政権の「知的ボディガード」となりました。あるいは、ジェームズ・ブキャナンが言ったように、経済学者は “陣営の追従売春婦 “となりました。

この乗っ取りは、1930年代の「ケインズ革命」で頂点に達しました。その後、経済学の主流は大学も含めて、事実上「政府を助ける翼賛者」となったのです。

これに対し、オーストリア経済学は、経済がどのように機能するかについて、ケインズ以前の古典的な理解に戻っただけなのです。

3. オーストリア経済学とは

オーストリア経済学の名前の由来は、1800年代後半にドイツ語圏が、科学の多くと同様に経済学の分野を支配したからです。しかし、プロイセンとオーストリアという2つのドイツ語圏では、経済学はまったく異なる動きをしていました。

プロイセンの経済学者は政府から資金援助を受けていましたが、貧しいオーストリアの経済学者は違いました。オーストリアの経済学者には、政府から給与をもらうことはありませんでした。そこで彼らは、経済学者が何世紀にもわたって行ってきたこと、つまり経済がどのように機能するかを理解しようとすることに日々を費やしました。なぜ人々は売買し、取引し、交流し、働き、生産し、破壊するのでしょうか。

このことは、古典派経済学の数世紀にわたる進化に従うということです。

そのため、私は経済学者のピート・ベッキともに、オーストリア経済学こそが「真の」経済学であり、彼が「本流経済学」と呼ぶ経済学であると考えています。政府に追従する売春婦である「主流派」経済学とは対照的です。

4. プラクシオロジー

ではそのような背景を踏まえた上で、オーストリア経済学は、「主流派」経済学と何が違うのでしょうか?

古典的あるいはオーストリア的なアプローチは、人間の行動を理解するために論理を用いることです。オーストリア経済学派では、これをプラクシオロジー (人間の行動の研究)と呼びます。

具体的には、プラクシオロジーは3つの重要な公理(公理とは明らかに真実であること)を用いており、そこから経済学のすべてを論理的に推論することができます。以下がその3つです。

(1)行動には目的がある これは、人々が(目的なく動くような)ビリヤードボールではないということです。人々は、ある理由のために物事を行うことを意味します。 つまり、自分の生活を向上させ個人的な利益をもたらすと信じているから、その行動を行うのです。

(2)人間には違いがある これは、人々が異なるスキルを持ち、異なるものを望んでいることを意味します。これは、人々が取引して交流することが有益であることを意味します。

(3)レジャー(労働以外の余暇活動)は良いものだ これは、人は利益が得られる場合にのみ仕事に従事することを意味します。そのため、例えば暴力が使われない限り、「抑圧された」労働者など存在しないということです。

プラクシオロジーの3つの重要な公理

驚くべきことに、この3つの公理で経済学のすべてを説明することができます。微積分で書かれた数十冊の本(主流派の経済学の本)は必要ありません。

さらにこの公理は、人々の幸福を最大化する方法は「自由」であり、政府は人々を保護する以外には絶対に何もするべきではない、ということを含んでいます。

結局のところ、行為者が自分の人生を最も良くすると考えることに基づいて行動するのであれば、自由に選択する能力を保護する以上の政府の役割はありません。

一方、人間の違いが交流や相互作用を動機づけるのであれば、やはり邪魔をしないこと以外に政府の役割はありません。

これに比較して、主流派経済学は理論を無視し、データを重視します。「データに語らせる」が彼らの信条なのです。これでは、経済学は統計学以外の何ものでもありません。理論的には、データに語らせることは中立的で科学的に見えます。物理学におけるデータの使い方と同じです。

しかし、それでは政府からの賄賂の話に戻ってしまいます。

結局のところ、誰がデータを集め、誰が統計分析を行っているのかということです。政府は、助成金、予算、学生ローンなど、大学の収入のほぼすべてを占めています。実際、大学以外のアナリストでさえ、実質的に政府の翼賛組織として活動している非営利団体で圧倒的な収入を得ています。

これはデータが語っていないことを意味します。なぜなら、データがどこからか買われてきているからです。

その結果、主流派の経済学では、あらゆる政府介入あらゆる中央プランナーは、データの問題に過ぎなくなりました。シミュレーションを行い、その結果がプラスかどうか、つまり介入が世界を改善するかどうかを見るのです。アナリストに報酬を支払っているのが誰なのかを考えれば、少なくとも紙の上では、あらゆる政府介入は必然的に世界を改善することになるのです。

その結果、あらゆる政府プログラムは理論的には完璧に機能します。そして実際の政府の介入は、すべて惨めに失敗するのです。なぜなら、福祉プログラムから産業政策、官僚的規制、連邦準備制度理事会(FRB)そのものに至るまで、データが語れることはすべて語られているからです。

しかし、政府の政策には重要な意味があります。すべての人がすべての取引から利益を得ており(行為公理、余暇公理)、すべての個人が最良の取引を見つけるのが最善であるならば(主観的選好、差異公理)、私たちの選択能力を保護する以上の政府の役割はまったくないということになります。政府はせいぜい邪魔なだけです。私たちは政府にお金を払って、自分たちを破滅させようとしているのです。

5. オーストリア経済学派の思想的意味合い

政府の介入は有害であるというオーストリア学派の重要な洞察は、経済学のほとんどすべての問題に適用できます。

実際、経済学者のマレー・ロスバードは、1995年に 出版した『Making Economic Sense』という本の中で 、 117のよくある誤謬を解説しています。これは30年後にも、まるで先週書かれたように読むことができる内容です。

イデオロギーという点では、政府が常に正しいとするケインズ経済学、あるいは大企業が常に正しいとするシカゴ経済学とは対照的に、オーストリア経済学はリバタリアン的な世界観を示唆する傾向があります。政府の役割は、「邪魔をしない」ことです。せいぜい個人が自らの幸福を追求できるように、役に立つ役割を果たすだけです。

オーストリア経済学にリバタリアニズムが必要だというわけではありません。個人にとって何が最善かを知っているのは個人であることを認めれば、どんな中央プランナーもあなたの人生をあなたよりうまく運営することはできないということになります。どんなに博士号を持っていても、です。

それは、人々を助ける最良の方法、社会を築く最良の方法は「自由」であるということを意味しています。

物理学を学べば重力を信じるように、オーストリア経済学を学べば自由を信じるようになります。