「共同意思決定」とは何をさすのか
第三の重要語としては「共同意思決定」があげられるが、これにも神野は定義を与えておらず、序章から「おわりに」まで漫然と使っている印象を禁じ得ない。
序章で、「社会の構成員の共同意思決定による合意という民主主義」(:5)にしても、「共同意思決定」とは何をさすのかが不明だから、丁寧に読んでも分からない。
それは投票率が30%台程度の「選挙結果」だけではないことは確かであろう。仮に投票率が50%を超えたとしても、それを厳密に「共同意思決定」といっていいのかどうか。これについても神野の説明がほしい。
「共同体意識に基礎づけられた共同意思決定」とは何か序章では、その他にも 「社会の構成員の共同意思決定で、要素市場による所得分配が公正ではないと判断すれば」(:13)としても使われているが、どのような方法による「判断」結果なのか。
国民の悉皆調査などは不可能であるから、マスコミや総務省などによる「国民投票」か、あるいは選挙予測のような無作為抽出法により有権者約8000万人国民から選ばれた1000人かもしくは10000人程度の意見集約による「判断」なのか。
さらに序章の最後では「政治過程で共同体意識に基礎づけられた共同意思決定が機能不全を起こし」(:19)と書かれているが、いつの時代の「共同体意識」か。また「共同体意識に基礎づけられた共同意思決定」とは何か。そしてその「機能不全」とはどのようなことか。
神野には自明かもしれないが、社会学者も含めて読者にはこれだけでは明瞭とはならない。
「共同意思決定」は民主主義なのか次に第1章では、「社会の構成員の共同意思決定にもとづいて運営される民主主義」(:33)というように、5頁とほぼ同じ文章が認められるだけであった。
そして第2章では登場しないが、第3章になると再度多用されるようになる。
「社会の構成員の共同意思決定つまり民主主義」(:98-99)、「『自立』と『信頼』によって社会の構成員が近づき合い、共同意思決定という合意形成が実現」(:99)、「社会の構成員がかけがえのない能力を発揮し合って共同意思決定をする」(:99)、「政治システムにおける共同意思決定に影響を与える」(:100)、「社会の構成員が、権利と責任において共同意思決定に影響を与える方法」(:100)など、至るところで使われている。
要するにここでは、共同意思決定とは民主主義とほぼ同義かその主力となる方法という理解なのであろう。
地域住民が「共同意思決定」を通じて決める方法とは何か第3章後半にも、「政治システムにおける共同意思決定が実現していく」(:115)というように、100頁と酷似した表現も見受けられる。さらにその末尾になると、その具体的方法には何も触れずに「どんな地域社会を望むのかを、地域住民が共同意思決定を通じて決めればよい」(:135)とさえいわれる。
都市社会学や地域社会学を専門とする社会学者だけではなく、地方自治の専門家すらも、「地域住民が共同意思決定を通じて決める方法」について長年試行錯誤してきただけに、このような方法論が示されない文章には驚くだけであり、もちろん何の説得力ももちえない。
第5章でもこの言葉は異なる意味合いで使われた。なぜなら「自発的協力の限界も、構成員の共同意思決定にもとづく強制的協力で克服される」(:216)というように、「共同意思決定」が民主主義の合意の前提ではなく、権力的な「強制的協力」に代えられてしまったからである。
「共同意思決定」の方法が欠如そして巻末では、何度も繰り返された「民主主義とは・・・・・・社会の構成員の共同意思決定のもとに未来を決定しようとする運動である」(:232)や、「私たちには人類の存亡がかかった間違いの許されない共同意思決定をする歴史的責任が求められている」(:238)で締めくくられた。
以上紹介したように、最後まで「共同意思決定」の方法については何も書かれなかった。それは神野にとっても末尾におかれた「見果てぬ夢」(:240)なのかもしれない。
4. 未来社会の展望
比較の問題第5章では「人間らしく生きられる社会へ」と題して、いくつもの展望がなされている。もっともスウェーデンへの思い入れは全編を通して読者には伝わってくる。
ただし社会システム論では国を比較する際でも、人口規模をある程度揃えておかないと、比較は難しいと考えられている。ましてやお手本にするという訳にはいかない。なぜなら、「政治的な自由がその真価を発揮し、最高の文化財を生み出す国もあれば、政治的自由が役に立たず、社会的な無秩序をもたらす国もある」(シュムペーター、前掲書:45)からである。
比較社会学では、「論理的に同じような手続きで収集された研究成果との照合を必然化する。それは対象の規模をそろえたり・・・・・・・・・・・、文化の相違で区別したり、他の社会システムや文化圏との比較を要請することになる」(傍点金子、金子、2013:19)。
社会システム規模が12倍の違いを無視できるかたとえば、2022年における日本人口が約1億2500万人、スウェーデンのそれは1050万人なので、日本はスウェーデンよりも約12倍の人口を擁しているという事実も大きい。
図3は国民負担率(対国民所得比)6カ国間での比較であり、よく使われるデータでもあり、スウェーデンと日本との相違は非常に鮮明である。
人口規模が12倍の比較事例しかし社会システムの規模を軸にすると、もっと根源的な問題が生じる。
まずは比喩から始めると、人口規模で12倍なのだから、たとえば10人の零細企業と120人の中企業はそのまま比較できるか。また、10人の店員のショップと120人の店員を擁するチェーン店との比較はどうか。
あるいは、1万人の町村自治体と12万人の都市自治体の比較をどうするか。さらに、10万人の地方都市と120万人の政令指定都市は比較できるか。そして50ベッドの病院と600ベッドを持つ大病院の比較は可能か。
国連でも「子どもの比率」の比較は人口4000万人以上の37カ国で行っているかりにこの5例の比較にためらいがあるのなら、日本とスウェーデンとの比較もまた慎重にならざるを得ない。
ちなみに国連が年少人口比率(子どもの比率)の比較をする際には、人口4000万人以上の37カ国で行う。4000万人以上の国といっても、中国やインドと比較すると、規模の相違は歴然としているが、それでも一応国連は国の人口数を基準として、社会システムの規模に配慮していることになる。