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前回の(上)を受けて、引き続き「人間が信頼し合える社会」についての議論の仕方を考えてみよう。

(「人間が信頼し合える社会」の議論の方法(上):神野直彦『財政と民主主義』を手がかりに)

(2)違和感2…「社会統合」概念が曖昧

未定義の「共同体」、「社会統合」、「共同意思決定」の重要語のうち、「上」では「共同体」を取り上げたので、「下」では残り2つについてみておこう。

「社会統合」は根本概念

社会学では「社会統合」は根本概念の一つであり、個人レベルでの「統合」を重視して、「意識」面からのアノミー指標に基づく調査を積み上げて、その「非統合」ないしは裏返しで「統合」を説明するような定義がある。

その一方で、社会システムレベルの側からの「統合」に関心を持つ研究者は、集団関係や制度が果たしている機能の側面を重視した「統合」論を展開する。また、社会運動論でも、住民運動や大衆の集合行動を通しての「統合」ないしは「非統合」を論じる立場もある。

いくつかの意味が混在

本書では、「市場社会で社会統合を果たす国家」(:4)という表現もあれば、「政治システムが社会統合を果たす」(:6)とも使われる。その反面「人間と人間との関係も存続させなければ、社会統合が実現できない」(:7)というように、人間の間での「統合」としての使用も見受けられる。あるいは、「人間の生命活動が持続不可能となれば、社会統合は不可能になる」(:13)もある。

序章以外でも、第1章では「財政が所得再分配機能を発揮して、社会統合を果たしていく」(:40)がある。財政が所得再配分機能を果たしても、社会システムの統合が可能になるかどうかはわからない。それは「社会統合」の定義次第で決まるはずである。

社会統合は経済システムや社会システムの上位概念か

第2章でも「経済システムや社会システムの自発的な活動を、強制力を行使して『規制・統制』することは、反発を招いて、かえって社会統合が困難になってしまう」(:53)という表現がみられる。ここでの使い方は、社会統合は経済システムや社会システムの活動の上位概念とされている。

さらに「社会システムが混乱状態に陥れば、社会統合が困難になる」(:61)に至ると、トートロジーの印象すら与える。社会システムの適切な遂行こそが「社会統合」にもなるからである。

日本社会は「社会統合」されていないのか

加えて、「日本財政の無責任性」により、「社会権の思想の洗礼を受けている現代では、人間の生活を保障する責任を放棄する政府は、社会統合を果たして統治することはできない」(:65)や「社会の構成員の生命を保障する医療サービスの提供に政府が責任を担わなければ、政府は社会統合を果たすことができない」(:65)になると、暴動もクーデタも起きていない日本社会でも、まったく「社会統合」されていないかのような印象を受ける。

いずれの文章も神野の思いが「社会統合」に託されているのだろうが、その内容とレベルの微妙な相違が神野によって具体的に表現されていないために、鮮明な意味が届かない。

「行き詰まった」福祉国家は「社会統合」されていないのか

第3章では共同意思決定や共同体についての議論が多くなるが、それでも「財政は社会システムにおける人間の生命活動のためには、経済システムを制御して、社会統合を果たしていかざるをえない」(:109)と書かれる。「制御」にしても「社会統合」にしても、財政にそのような機能がどこまで備わっているか。この点についても議論の余地がある。

第4章では後半にまた「社会統合」が登場する。「累進的租税負担と社会保障の現金給付を組み合わせて、財政が所得再分配機能を発揮して、社会統合を図ろうとした福祉国家は行き詰まった」(:193)とある。福祉国家は「行き詰まった」が、それと「社会統合」とは重なり合うわけではないであろう。だからこのような文脈での使用と、「いうまでもなく、中央政府は国家として社会統合することに最終責任を負う」(:203)とがどのような連関にあるか、読者には伝わってこない。

そして、結論となる第5章「人間らしく生きられる社会へ」では「社会統合」そのものが消えてしまった。これはどのような理由だろうか。

(3)違和感3…「共同意思決定」概念が曖昧