(結)過去と現在の連続性
冒頭に述べた過去の忘却、過去からの脱却もそうだが、一見「敵」に見える対象を切り捨てて攻撃を加えたり、無かったことにしたりするのは、ある意味で格好が良い。PRしていく上では、こうした二項対立に基づく攻撃や無視(決別)は、非常に訴求力があることは間違いない。
しかし、今の自分や未来の自分を形作っているのも、意識するとせざるとに関わらず実は過去の自分であるし、日本の政治を、或いは日本の社会を形作っているのも実は、自らと考えを同じくする人たちばかりではなく、様々な意見の総体としての人の集団である。
「こうだろうか?」との曖昧な日本的民主主義にも良いところがあるのではないか、などと国際社会・世界各地での分断を見ながら感じる今日この頃であるが、ずっと曖昧ではいられない中での「ギャップ萌え」を促す“たまの決断”も大事で、バランスが重要だ。TVドラマと政治ドラマ、両方見ながら何となくそんなことを考えている。
最後に、最近お話を伺ったり議論したりする機会の多い、尊敬する知人の経済学者の安田洋祐先生(大阪大教授)の素敵な言説を紹介してこのエッセイを締めくくりたい。
その内容は、概ね以下のものであった。少し長いが、ここに紹介させて頂く。(私の記憶ベースなので、責任は全て私にあります。)
現在にマルクス主義を復権させつつある斎藤幸平先生と、近代経済学の学徒である自分(安田先生のこと)とは、一見、水と油のように違うスタンスの持ち主同士だと思われがちだが、実はそうでもないんですよ。
色々なシンポジウムでご一緒して議論していて感じるのは、もちろん、全く同じ意見ではないわけですが、資本主義の限界に挑むというメタ的な意味では、実は同じだったりするということなんですね。
現在の資本主義の否定のような形で、地域のコミュニティなどに活路を見出す齋藤先生のアプローチと、マーケットの現在を超えるべくマーケットデザインを設計しようと試みる自分のアプローチは同じではないが、戦友みたいな気持ちを感じることもある。
峻別より包摂。忘却より連続。対峙より矜持。うん、攻撃や論難より甘美な響きがある。
実話だが、今日、偶然、青山社中リーダー塾生のこうたろう君が面談に訪れていた。こうだろうか?の“こうたろう諸氏”の大決断に乾杯!