複雑な絡み合い

フレイザーは民主主義の危機が、先に述べた四つの時代に様相を変えながら継承され、金融資本の時代には全般的危機の主要現象に成長し、このため自らを守り育てた公的権力を不安定にすると主張する。そして、この政治的不安定を自らの力で解決できなくなっている。

問題は絡み合っている。その解決とりわけ全般的解決は途方もなく長い道のりになる。そういうことなら、希望は大きくないように見えるが、そうではない。問題が社会化し、多くの人々に共有されるから、逆に可能性がある。経済の中にある反資本主義、つまり労働運動だけでなく、一見反資本主義には見えない様々な勢力が連合できるのである。

フレイザーは、この問題を最終章で述べることになる。しかも、それに新社会主義という名前を与えて。それを検討するのは次回になるが、それに行く前に、民主主義についてみておこう。

民主主義と資本主義

「資本主義社会では経済的権力と政治的権力は分離している」(同上:207)。

経済の領域を律するのは主に市場である。市場の支配力は資本主義の拡大とともに大きくなる。逆に言うと、政治に残された部分は狭くなる。つまり、民主主義が機能する領域は縮小する。

まさに、一時期、言葉だけが流行したが、それは小さな国家である。市場のことは市場が決める。国家は、立ち入り禁止だ。しかしここに重大な副作用が起きた。

「集団的に意思決定する私たちの能力を奪い取る」(同上:208)。

そこで結論はこうなる。資本に本来備わった構造によって、資本主義は基本的に反民主主義だ。日本でも、新自由主義が浸透してきた時期と民主主義の後退はほぼ一致している。投票率の低下(特に都市部)、野党が後退(日本社会党の消滅)、ミニ与党の乱立、それらの右傾化などがあげられる。

国会での与野党対決、しばしば起きた乱闘⇒強行採決の光景は昔物語だ。国の大事なことを、民主的に討議して決める必要はなくなった。市場が決めればよいと多くの人が思い始めている。政治はまさに、市場に立ち入り禁止、それに慣れた私たちは歌を忘れたカナリアである。

公的権力の在り方

資本主義における政府は、主演ではなく助演であるといったのはラワースだが、今ではそれすら怪しくなった。IMFなどの国際機関の統制が強まったことも各国(アメリカは除く)の政府を弱めた。フレイザーは2015年のギリシャの例を挙げている。国民投票で決まったことがEUからの圧力で覆った。

広い資本主義では、様々な分野に現れた危機は単独で存在するのではなく全体の一部としてある。これがフレイザーの示す基本命題だが、続けて重要なことを述べる。危機が現実化するのはどういう場合か?

危機の構造

「彼らが体験している緊急の課題が既存の秩序があるのにもかかわらず、まさにその秩序を原因として生じ、しかもその秩序では解決できないと直感的に感じた時である。そして、必要となる人数でその秩序を集団行動で転換でき、また転換しなければならないと決意した時、ようやく、客観的な窮地は主観的な声を上げる」(同上:223 若干、訳文を直した)。

危機は客観的に存在し、それが進行するようになっても、まだ真の危機ではない。それに対抗するヘゲモニーが主観的に意識されてこそ、そうなるのである。実践を意識した活動する政治学者ならではの言明だ。

カーテンの背後にいるもの

もっとも、主観的に打ち立てられるヘゲモニーが、必ずしも進歩の方向性を持っているとは限らない。フレイザーは、ここでイギリスのブレエグジットや、アメリカのトランプ出現を意識しているようだ。

反金融資本を掲げるヘゲモニーが、多くの場合ポピュリズムか極右に取り込まれてしまった。舞台のカーテンの背後にいるもの、真にことを操っているものを見失ってはならないと警告する。ポピュリズムは資本主義の巧みな演出に騙されているのだ。

「カーテンの奥に隠された権力の正体を暴くことができない」(同上:230)。

実際、カーテンの前の左翼風の勢力は口々に”解放“を叫ぶのだが、むなしく響くだけである。その挙句、諸勢力がカーテンの前の位置をめぐって争い始める。

フレイザーのいうインチキな争いに人々が巻き込まれ、それをいいことに「カーテンの奥の黒幕は大笑いしながら銀行へ向かっている」(同上:231)。

で、どうなる?

では、どうなるのだ? シュトレークと同じように、ヘゲモニーのブロックが形成されるまでの空白期を覚悟している。この点はグラムシとも共通している。「それまでは、金融資本主義の断末魔の叫びと全般的危機という、多くの病的な兆候の中で生きる」ことになる。

フレイザーを代弁しておきたい。社会科学の任務は、現代社会の構造をとらえる、単にそうするのではなく実践を考慮して。できたら学問的成果を携えてプラン作成に参加する。それは政治家の仕事だが、何等か形で協力する。今、まさにそれが求められている。この事態を放置すれば、社会科学は無用の存在になる。

小括

「広い資本主義」を構想する。それは、経済学の無力化への反省から、そして経済学帝国主義(唯物論、下部構造論)への反発から生まれた構想だが、十分に検討に値する。

現代資本主義の諸矛盾は、経済だけでなく、社会、政治の広い分野で発現している。自然破壊もその一つであり、根源は一つで、ただ複雑に絡み合っている。単品で取り上げて対応しても解決にはならない。複雑であるからこそ社会科学の出番もある。

細分化しすぎた現状から脱却して、総合科学の体裁を取り戻す。また、複雑に絡み合ってるからこそ、多くの様々な立場の人々が統一できるプラットフォームでありうるし、反資本主義の統一したヘゲモニーが確立できる。

フレイザーは、独特の歴史観を提示する。”線引き”という独特の理論的ツールもある。本の最後で、彼女の構想、新しい社会主義、が展望される。これらについては、次回に検討する。

電子ブック『The Next』

私は、アゴラの15回の連載で資本主義の構造を示し、人類の体制としての限界を示した。これらを取りまとめ、Amazonから電子版を先ごろ出版した。

今後の課題としているのは、実践論だ。誰がどうやって資本主義に引導を渡すのか。マルクスの時代とは違う。資本主義は自動的には倒れない。むしろその状況が悪くなるだけである。なんとかするなら、今なのだが、そこで問題は、主体、だ。それを考えるうえで、広い資本主義は大いに参考になる。スーザン・ストレンジ、そしてナンシー・フレイザー、いずれも優れた政治学者だ。

(次回につづく)

 

【参照文献】

フレイザー,N.,2022=2023, 江口泰子訳『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』筑摩書房 ヤン・ド・フリ-ス,2008=2021,吉田敬・東風谷太一訳『勤勉革命』筑摩書房 ラワース,K.,2017=2021,黒輪篤嗣訳『ドーナツ経済』河出書房新社

 

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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