略奪について
『資本論』の示した資本主義の矛盾の核心は、資本による労働の搾取であった。それは剰余価値の分析に象徴される。
フレイザーは、略奪の上に搾取が乗っているとみる。現代でも、世界のいたるところで奴隷労働は見られる。アフリカや中南米の鉱山で見られる低賃金。おそらく日々の生活や命の再生産もままならない低賃金の強制労働は世界各地で目撃されている。社会主義を標榜しつつも、異民族を苛酷に扱っている国もある。
フレイザーの第二章はこうした記述で充満していて、次のように結論する。
「搾取と収奪は深くより合わさっている。」(同上:71)。
ついでに、社会学者ムーアの言葉を添える。
「マンチェスターの後ろにはミシシッピがあるのだ」(同上:71)。
これはマンチェスターは労働者からの搾取、ミシシッピは黒人奴隷からの略奪を意味している。
ケア労働第2の「ケア労働」とは、家庭内の労働、つまり家事、育児、家庭管理のことだが、資本主義はこれらに賃金を支払わない。また、資本の再生産の条件の一つは新規の労働力の供給だが、資本主義自らはやらずに(できない!)家庭に任せてきた。資本の再生産は利潤をエンジンにして無限に展開するが、人の再生産はそうはいかない。賃金は払うが、それだけである。
また、ケア労働にもそれが家庭内でなされる限り支払わない。しかし、「ケア労働には、商品化された労働力の供給を確かなものにするという重要な役割がある」(同上:100)。
宇野理論を想起させる解説を書いている白井聡が、フレイザーの論理はかの宇野理論を想起させるといっている(同上:290)。労働力の商品化こそ資本主義の矛盾の核心だと。
資本主義はケア労働をケアしない。だから、やがてケア労働は成り立たなくなる。資本主義は自分のしっぽに食らいついて食べてしまうウロボロスだ、というフレーズが何度も出てくる。ケア労働を価値の生まないものとして、外に置く。
経済学の視野に家庭が入ってくるのは消費の場所としてだ。でも、そこには暗黙のセー法則が前提されているから、問題なく資本が通り過ぎる通過点なのである。
ド・フリース『勤勉革命』世帯に注目して、その役割を積極的に取り上げたのは、ヤン・ド・フリース(2008=2021)である。
産業革命が成立したのは、その前に世帯の中で勤勉革命があり消費の体制ができていたからだという、それこそ革命的な理論を、多くの実証的資料を基に示している。
自然環境グレタさんは「大人たちは私たちの未来を盗んでいる」と怒っている。フレイザーは第4章でこの問題を扱うが、主張はかなり独特だ。
自然の定義もそうだが、自然環境を生態学的問題として扱う。そしてそれは、経済、社会、政治のすべての領域にまたがる「全般的危機」だとする。これにどう立ち向かうか?それには多くの人に共有される「対抗ヘゲモニー」(同上:138)を築くことだという。間口の狭いエコロジーでも駄目だし、地球温暖化をほかのあらゆるものに優先する切り札にする、これもよくない。
これには、一見、おやっ、と思うが、ここは注目しておきたい。なぜなら、環境保護といえば反対する人はいないのだから、それだけで切り札にしたくなる。
しかし、経済、政治、社会に関係のないように見えても、環境は資本主義の諸問題と絡み合っているのだから、全体的に取り扱うのが良い。要するに、環境問題を、「単品で振り回すな」というのである。
エコロジーも総合的にみるエコロジーは世界的にみてもすべての政党がそのスローガンに入れている。それなのに、成果が見えないのはなぜか?フレイザーは考えたのだろう。それを、広い資本主義の生みだした問題そのものとして取り扱えていないからである。
誰もが関心があるのだから、ブロック化したヘゲモニーを形成する絶好の課題なのであるが、資本主義に内在する問題として、他の諸問題とともに取り扱うべきなのだ。
「気候変動を食い止めるためには、その原動力(濱田注:資本主義のこと)を解体しなければならない」(同上:139)。なぜなら、資本と自然の間には生態学的矛盾が内在しており、それが時代によって異なった発現形態を示す、この認識のないエコロジーは軽いから、成果が出せないのである。
時代区分フレイザーは時代を四つに区分する。重商主義、リベラルな植民地主義(自由貿易を言い換えたもの)、国家管理型資本主義、そして現代は金融資本主義になる(同上:80-90)。各時代に矛盾があり、それぞれの様相を示し、第4章で述べた生態学的矛盾と絡み合う。
それなら、資本主義をやめてしまえばすべては解決するのか?反資本主義という旗のもとに、つまりブロック化したヘゲモニーのもとに運動を統一することで人類の未来は開けるのか?
フレイザーはここで答えを保留して、時間が迫っていることを心配している。
「体制を超えて悪化する地球温暖化は、桁違いの危機が起こる前触れだ。気候変動は歴代の資本主義体制と歴史的自然の上に容赦なく積み上がり、時限爆弾は邪悪に時を刻み、人間のー人間だけではないがー歴史の資本主義の段階に、不名誉な終わりをもたらしかねない」(同上:185)。
フレイザーは手遅れを避けることを何度も強調している。そして、環境問題を、環境という枠を超えて扱うことを繰り返す。
いかに環境を守るか枠を超えて、これは重要だ。“環境を守る”は誰の口にも上る。「富裕層の環境主義」もある。フレイザーはそれを“高尚な環境主義”と呼んでいる。しかしそれには不満なのだろう。略奪され、搾取されている人々が自らの開放のための運動と共に展開しなければならない。
「資本主義の制度的枠組みと構造的な力学を温存したままでも、『環境』は適切に保護されうる」(同上:190)という考え方はかなり怪しいのである。
こうした言い方の根底には、フレイザーが従来の社会民主主義をきっぱりと否定する態度を見て取れる。脱成長だけを主張し、資本主義を廃止する必要はない、という先進国に蔓延している日和見主義とは、とっくに絶縁しているようだ。資本との対決を回避するな!
政治について資本主義はそれ自体では立てない。根源にある私的所有制度を守るには法律が必要だし、それを支えるのは公的権力だ。貨幣・紙幣を発行するのは中央銀行か国家である。
経済学の昔の名前は政治経済学であった。フレイザーは、経済学に新しい国家の役割を付与する。「広い資本主義」を想定すれば、それを支えるものは、略奪、世帯のケア労働、自然の持つ資源と人を癒す環境であるが、これらの要素がうまく資本に奉仕するように調整するのも国家の仕事になる。構造主義者のいう調整の範囲と幅は広がっているわけだ。これが第5章のテーマである。
民主主義の危機そこで民主主義が登場する。資本主義はかなり長い間、これを有力なツールとして使ってきた。社会主義が現存する時代は、それへの対抗の道具でもあった。しかし、世界のあちこちでその民主主義が危機に瀕している。
フレイザーは、政治も狭く考えてはいけないと強調する。
「今日の民主主義の疲弊は社会秩序をそっくりそのまま飲み込んでいる全般的危機の紛れもない政治的要素だ」(同上:199)。
ここで、かのシュトレークを引用して、「民主主義が多くの国で敗北したのと、グローバル金融資本が世界を支配し始めたのは、同じ時期だった」とみている(同上:199)。