「日本の現憲法はマッカーサー元帥の労作である。日本国内ではなお支持は多いとはいえ、外部から押しつけられた文書に変わりはない。戦後の日本では強固な二党政治がないためもあり、自国の進むべき方向や目標についての基本的な思考や論議がなされてこなかった。自主憲法の作成はいやでもそうした思考や論議を引き起こす。そうした動きは競合しあう理念に基づく政治を成長させる。そしてこれまで国の優先政策を勝手に決めてきた硬直した官僚機構や大企業幹部の利害ではなく、日本国民一般の真の意思をくみあげる機会を生む」
「日本は経済大国なのに国民の生活の質は低いという点でも世界の『例外』である。この例外性は現憲法を原因とする政治論議の欠落に帰するところが大だ。とくにいかなる軍事力の行使をも否定する第9条の影響が大きい。日本人の外部世界に対する基本的態度もこの第9条の影響で形成されてしまった部分が大きい。あらゆる力の行使の否定、あらゆる戦争の否定は全世界でも日本だけを唯一の例外にしている。憲法でそういう否定をする国家は他に存在しない。その結果、日本国民は自分たちが世界でも例外だという意識を抱き、力の行使の論議を伴う外部世界での出来事への対応には責任ある関与はできないままできた」
「憲法第9条は日本が国際社会の完全に責任ある一員となることを妨げ、クウェートやカンボジアでの国連主導の平和維持活動に寄与することを遅延させてきた。ブッシュ政権あるいはその次の新政権は日本の例外意識をなくすために、世界でも例のない第9条の改正を非公式に促すべきだ。第9条の破棄は『すべての戦争は悪』という幻想を打ち砕き、民主主義国が侵略に対してみずからを守るために除外できない力の行使について日本側での真の政治的論議を可能にするだろう」
以上がこの政策提言の冒頭部分だった。憲法9条を「幻想」と切り捨てる冷徹さである。日本側としてはその「幻想」を押しつけたのは当のアメリカではないか、という反発もあろう。だがそのアメリカの意向もこれほど変わったということなのだ。さらにこの政策提言は以下のように続けていた。
「日本が正義や侵略阻止のための力の行使をも否定するという消極平和主義の幻想にしがみつく道を選ぶことは、もちろん自由である。だが『第9条がなくなると、日本は軍国主義になる』という主張は意味がない。日本ほど第二次大戦の悲劇を繰り返す可能性のない国はないだろう。逆にもし日本自身が侵略を欲すれば、憲法がそれを阻止することはない。軍国主義の日本の復活をもっとも効果的に防ぐのは、無言のウソに基づく憲法の条項ではなく、種々の政治理念のオープンな競合に基づく活気ある政治システムである」
「日本国民が自主憲法の作成を考えれば、政治的に多元の自由な土壌が広がるだろう。その結果、現在の超商業主義や将来に起こりうる侵略主義の芽をつむ基盤が作られる。これまでほとんど存在しなかった国民レベルでの活発な政治論議が実際に起きれば、生産者や官僚ではなく、一般国民、つまり消費者が国の政治や経済の基本的方向を決めるようになる。この動きはアメリカにとっても好ましい。アメリカは日本が改憲によって『例外』をやめ、穏健な国家意識と成熟した民主主義の国になることを促すべきだ」
以上の提言は具体的にアメリカの時の政権が日本側に非公式に憲法改正を奨励することを提案していた。「非公式に」と強調するのは一国が他国の憲法のあり方をあれこれ述べるのは内政干渉として映るためだからだろう。だが前述のように日本の憲法のあり方はその誕生時からアメリカを切り離しては論議できないのである。
当時の私はこの米側では初めての公然たる日本への改憲の奨めに強い関心を覚え、その内容を報道した。この政策提言の作成の中心になったのはヘリテージ財団のアジア研究センターのセス・クロプシー部長だった。クロプシー氏は当時40代、すでに歴代政権で国防長官補佐官、国防次官代理、海軍次官補などを務めてきたアジアの安全保障専門家だった。