目次
3. 奈良の大仏の建立責任者に抜擢された行基さん
4. 才能ある人に定年はない

3. 奈良の大仏の建立責任者に抜擢された行基さん

私は建築の専門家ではありませんが、当時の建築技術でこれだけたくさんの建築物を建立したのは奈良時代の建築の天才であったろうと思います。

彼が生きた8世紀の日本には大きな問題がありました。天然痘という、今では人類が克服した感染症ではありますが、当時の政権の重鎮もこのウイルスに倒れています。当時の日本も昨今のようにウイルスのパンデミックに悩まされていたわけです。

聖武天皇から天然痘を抑えるために大仏建立を発願され、行基さんに建築を発注されたいきさつも、公式サイトに以下のように紹介されています。

聖武天皇との出会い

724年に、聖武天皇は行基菩薩の布教活動・社会事業に理解を示され、731年には行基菩薩の弟子に出家を許しました。行基菩薩は、すでに64歳になっておられました。行基菩薩と民衆の力は、聖武天皇の恭仁京や紫香楽宮の造営の原動力になったのです。

そんななか、743年に聖武天皇は、鎮護国家を願って盧遮那仏の造営を発願されます。時に行基菩薩は76歳でした。大仏造立の詔には「人、情に一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむと願ふ者有らば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ」とあります。盧遮那仏の造立を手伝いたいという者は、だれでも許せという言葉には、人びとによりそって活動された行基菩薩の教えがあるのです。【喜光寺 公式サイトより引用】

行基さんの奈良・喜光寺の蓮の花
(画像=<この花は蓮ではなく、モネも描いた睡蓮(すいれん)です>,『たびこふれ』より 引用)
行基さんの奈良・喜光寺の蓮の花
(画像=<おまけ:蓮の茎にしがみついていたアブです>,『たびこふれ』より 引用)

これって、別の角度からみたら、建築・美術のボランティア募集とも考えられますね。

天平15(743)年、聖武天皇の詔によって大仏像は鋳造されたもので、大仏鋳造と伽藍(がらん)造営は国力を注いだ一大事業であり、工事に携わった人は、有給・無給のボランティアは合わせて、延べ260万人余と言われています。

余談ですが、カイロ郊外のギザにある最も巨大なクフ王のピラミッドに動員された人数が、約2万~2万5千人と言われていますから、天然痘の終息を祈念して、その当時の多くの老若男女が大仏建立に参加していたように思います。

4. 才能ある人に定年はない

行基さんには、76歳にして大仏と大仏殿の建立の発注を受け、大仏像造営の勧進(責任者)になったということです。

この度、現代日本では定年を65歳まで延長されましたが、個人的には米国・英国のように、定年制などはなくすべきだと思います。奈良時代、8世紀の76歳が大仏建立事業を開始することと比較して、日本の65歳定年制度は恥ずかしくないかと思います。

また、余談ですが、バチカンのシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」の壁画制作をミケランジェロに発注されたのが1535年で、彼が60歳の時。そして、完成が1541年で、ミケランジェロが66歳の時でした。

ゲーテはこの壁画を見て、「この天井をみれば、われわれ人間がどれほどのことができるのかわかる」と驚嘆しています。当時としては驚異の88歳まで生きて、ローマで亡くなっています。お墓はローマではなく、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にあり、聖堂の正面入口から入ってすぐ右手に見える墓碑がミケランジェロの墓です。

行基さんの奈良・喜光寺の蓮の花
(画像=<喜光寺の本堂>,『たびこふれ』より 引用)

東大寺の大仏殿の小型が、この喜光寺の本堂だと言われています。行基さんは、大仏殿のように巨大な建物は日本史上初めてだったので、まずは喜光寺に小型の建築で、大仏が入る空間を問題なく支えるかどうかの実験をしたのではないかと思います。

行基さんは、749年に大仏の完成を見ずして81歳で亡くなりましたが、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」ともいわれています。また行った数々の偉業から「文殊菩薩の化身」ともいわれています。

行基さんも、ミケランジェロも、あの当時としては、記録的な超高齢まで生きて亡くなっています。彼らには定年退職は無く、亡くなるまで周りからその才能を認められ、働くことを期待され、老いることなど眼中になく働いたからではないかと思います。

喜光寺 基本情報

  • 住所:奈良県奈良市菅原町508-508
  • TEL:0742-45-4630