「産業人の使命は貧困の克服にある。社会全体を貧しさから作って富をもたらすことにある」。

彼は例として水道の水を取り上げた。ここに生活にとって不可欠の水道水という製品があるが、非常に安く生産され流通しているので、だれでも手に入れることができる。「企業人が目指すべきは、あらゆる製品を水のように無尽蔵に安く生産することである。これが実現されれば、地上から貧困は撲滅される」。

(中略)

「今日から、この遠大な夢、この尊い職業が我々の理想となり、使命となるだろう。そして、それを果たすことが我々一人ひとりの責務なのだ。諸君は縁あって松下電器で働くことになった以上、我々の前途に横たわる使命を全うする喜びと責任を分かち合ってもらえるものと信じている。・・・私は諸君の若々しい力と情熱をこの努力に結集させるべく、先頭に立って諸君を導いていく決心をした。・・・最も大事なことは、おのおのが人生で幸福を満喫すると同時に、次世代の利益にもなるように努力することである」

1933年7月31日、幸之助は経営理念を明文化した「松下電器の尊奉すべき精神」を従業員に伝え、全社一丸となってこれらの理想に邁進してほしいと要請した。「産業報国の精神」など5つの精神からなる尊奉すべき精神は、1937年にはさらに2つの精神が加わって7つになった。幸之助はこの経営理念を毎朝の集会で従業員に大声で唱和するよう命令した。

松下幸之助から何を学ぶか

幸之助の成功の説明方法に戻ると、コッター教授は序章で以下のように紹介する。

青年期を通じて、幸之助を並以上の才能だとみなす人はほとんどいなかった。ましてや偉大とみなす人などいるはずもなかった。彼は凡庸な少年だった。20代初めの頃は、神経質で病弱な青年だった。ところが 30代に入ると、トム・ピーターズや ボブ・ ウォーターマン(筆者注:世界的ベストセラー「エクセレント・カンパニー」の共著書)が1970年代後半に強調したようなビジネス慣習をすでに考え出していた。40代になると、先見性のあるリーダー、いわゆる「ビジョナリー・リーダーズ」になっていた。第2次対戦後は、経済の成長、加速度的な技術の変化や 国際化などに驚くほど適合した組織を作り上げた。1970年代80年代になると、著述業、慈善家、教育者、社会哲学者、政治家などの仕事にも加わるようになった。

しかし、その生涯を通じて彼がいかんなく発揮したものは、驚くべき成長と再生の能力であり、ほとんどの専門家が 一致して認めているところによれば比較的動きの遅かった過去の世紀よりも、より動きの早い21世紀において重要になる能力だった。

3節から成る「エピローグ:松下幸之助から何を学ぶか」ではまず、「日本が生んだ偉大なリーダー」で以下のように指摘する。

若き幸之助には高い学歴もなく、資産もカリスマ性も人脈もなかった。30年にわたって幸之助と手を携えて働いた井植蔵男(筆者注:幸之助の義弟で三洋電機元社長)は現に、若い時の幸之助には特別才能があったわけではなかったと語っている。

(中略)

結論を言えば、彼があれほどの業績を挙げられた最大の理由は、大きな成功とよく結びつけられる、知能指数やカリスマ性、特権、幸運その他も諸々の要因にあるのではなく、まさに、その成長にあったのだ。

続く「野心と信念」では次のように述べる。

わずか4歳で貧困のどん底に突き落とされ、9歳で働き始め、30歳になるまでに家族全員を失った。やがて生まれたばかりの息子と死別し、そして大恐慌、第2次大戦がたたみかけるように幸之助の身に降りかかってきた。これら悲劇的事件は途方もない辛苦を強いたが、同時に両親や兄妹たち、雇い主、妻、愛人、その他の人々に支えられながら、これらの事件を通じて、自己検証と探求心の意識が高まり、それが彼の目標と戦略と哲学に影響を与えた。艱難辛苦は自分を見つめ直し、学ぶ姿勢を促した。逆境は不安を高め、常に危機感を抱かせ、自己満足を遠ざけた。悲劇続きの人生は、自分は失敗を越えて生き残れる、だからリスクに挑むことができると彼に教えた。この一連の経験が途方もなく大きく複雑な感情―苦痛、怒り、恥、屈辱などーを呼び起こし、それが強力なエネルギーの源となった。

エピローグ最後の節「成長に終わりはない」では以下のように結ぶ。

幸之助自身も そう考えていたようだが、もし彼の人生からたった一つの将来に向けて 引き出せる教訓があるとすれば、それは、歳をとれば大きな成長はできなくなるなどと考えてはいけないということである。確かに多くの人々は老いるにつれて新しい考えを受け入れなくなる。成功は往々にして傲慢と自己満足を生む。失敗は往々にして リスクに挑む 気持ちを衰えさせる。しかし、こういう傾向は人間にありがちなことと決まっていることではない。

彼のお気に入りの誌はそれを余すところなく語っている。