【薬理凶室の怪人で医師免許持ちの超天才・亜留間次郎の世界征服のための科学】

 1881年にアメリカで二つの事件が起こりました。

 一つ目はガーフィールド大統領暗殺事件。

 二つ目は西部劇で有名なOK牧場の決闘。

 何の関係もなさそうなこの二つの事件の裏では医学界で大きな議論が起きていました。

 1881年7月2日、ガーフィールド大統領が撃たれ全米屈指のエリート医師団のフリをしたトンデモ医師団が治療にあたり11週間も苦しみ抜いた末に9月19日に死亡しました。

ガーフィールド大統領を殺したのはトンデモ医師団と偉人の息子! 暗殺事件で実際にあった医療過誤を亜留間次郎が解説
チャールズ・J・ギトーに撃たれた直後のジェームズ・ガーフィールド大統領(画像は「Wikipedia」より)(画像=『TOCANA』より引用)

 当時の銃で撃たれた時の治療は体内に残った銃弾を取り出して傷口を縫い合わせて塞ぐことです。

 大統領に対して行われた医療行為は酷い物で弾丸を取り出そうとした医師団は手も洗わず消毒もせずに傷口に汚い指をつっこんでほじくりまわしました。

 何度やっても銃弾が見つからず、大統領は何度も傷口に指をねじこまれる拷問を受ける羽目になりました。

 手洗いの徹底を説いたセンメルヴェイスが殺されたのが1865年で、ジョゼフ・リスターが消毒法をイギリスで発表したのが1866年と、傷口の消毒が始まってから15年ぐらいしかたっていない時代です。

 弾丸は体の奥深い場所にあったため医師団は弾丸を取り出せず、大統領は感染症で苦しみ続けた末に死にました。

 酷い医療体制は大統領がまだ生きていたときから批判されていましたが、医師団は一切聞きませんでした。

ガーフィールド大統領を殺したのはトンデモ医師団と偉人の息子! 暗殺事件で実際にあった医療過誤を亜留間次郎が解説
ギトー(画像は「Wikipedia」より)(画像=『TOCANA』より引用)

 それから大統領の医療過誤が問題になったのは銃撃犯のチャールズ・ジュリアス・ギトーの裁判でした。

 ギトーは弁護士の資格を持つ聖職者で神の言葉がどうとか支離滅裂な主張を繰り返していたので裁判は紛糾しました。

 その中でまともだった弁護の一つが「ガーフィールド大統領は弾丸ではなく医療ミスで死んだ」と主張したことです。

 大統領は死後に司法解剖されて負傷について詳細な資料が残されています。

 解剖されてやっと弾丸が見つかりました。

 左後ろから侵入した弾丸は脊椎の椎間板を貫通してからの右側にある膵臓の裏、脾臓の手前で止まっていました。

 太い血管や重要な臓器に損傷が無いので21世紀の医療水準だったら普通に手術すれば3日で退院できたと言われています。

 それどころか、逆に医師団が何もしないで放置していたらもっと長生きできたかもしれません。

 大統領は致命的な医療過誤で死んでいたのです。

ガーフィールド大統領を殺したのはトンデモ医師団と偉人の息子! 暗殺事件で実際にあった医療過誤を亜留間次郎が解説
ガーフィールド大統領を負傷させた銃弾(画像は「Wikimedia Commons」より)(画像=『TOCANA』より引用)

 しかし、人間は必ず死ぬ物なので一概に患者が死んだら全て医療過誤というわけではなく、当時の医学で判明している範囲でできることをやった結果で死んだ場合は医療過誤にはなりません。

 後知恵で21世紀なら3日で退院できたといわれても1881年当時の医学で救命不可能なら医療過誤ではありません。

 ギトーは事件から1年後に処刑されましたが、詳細な記録を元に臨床歴が作られ医療過誤の検証が行われました。

 大統領の医師達は当時の医学で助からなかったから仕方がないと必死で弁明しましたが、ここでマズイ症例が出てきました。

 ガーフィールド大統領が撃たれた2日後の1881年7月4日に遠く離れたアメリカ西部のトゥームストーンで鉱山労働者が銃で撃たれました。

 怪我は大統領と同じ腹部銃創です。

 それから9日後の7月13日に銃創治療のための開腹手術が行われ患者は助かりました。

 それから2カ月以上経過した9月19日にガーフィールド大統領は苦しみながら死亡したのですが、同じ時期に同じ負傷をした大統領と無名の鉱山労働者で大きな違いが出てしまったのです。

 無名の鉱山労働者は田舎の外科医に助けられ、大統領は全米屈指のエリート医師団に囲まれながら11週間も苦しみながら死にました。

 全米屈指のエリート医師団は田舎の外科医一人にすら劣ると問題視され大統領が撃たれた場所が西部の街トゥームストーンだったら助かっていたとまで言われてしまいました。

 ギトーが主張した医療ミスで死んだことを証明することになってしまいましたが、本人はとっくに処刑されていました。

 大統領医師団の話を調べると当時から医療ミスの指摘は山ほど残っています。

 そして、大統領の死からしばらくした1881年10月26日に西部劇で有名なOK牧場の決闘が起きています。

 OK牧場の決闘でバージル、ワイアット、モーガンの三兄弟のうちワイアットは無傷でしたが重傷を負ったヴァージル・アープとモーガン・アープをグッドフェロー先生が治療して助かっています。

 この西部の田舎町で次々と銃で撃たれた人達を助けていた天才外科医がジョージ・エモリー・グッドフェロー先生です。

 1881年は西部の外科医が腹部の銃創治療に画期的な手術を導入して劇的に救命率が向上した時代でしたが、残念なことに最も恵まれた立場にいた大統領が恩恵を受けられませんでした。

 グッドフェロー先生は西部の田舎町の外科医で助手もいないため酒場のテーブルを手術台にして酒場に居合わせた人達が手伝っていました。

 この当時、ちゃんとした病院の設備すら無く、手術道具が詰まったカバン一つでやっていたブラックジャックのような先生だったのです。

 それなのに大統領医師団が助けられなかった患者を次々と治していたのですから凄腕です。

 後知恵とはいえ、余計に大統領医師団の無能っぷりが際立ってしまいました。

 大統領が残念なことになってから数年後、OK牧場の決闘が有名になると次々と銃で撃たれた西部の荒くれ男達を助け続けたグッドフェロー先生も有名になり大きな病院で働くようになりました。