河井事件で「禁じ手」を使った検察
ところが、その常識を覆し、いくつかの「禁じ手」を使って、元法務大臣の現職国会議員とその妻の国会議員を買収罪で逮捕・起訴したのが河井事件だった。
河井事件では、起訴事実の2871万円の買収のうち、「県議会議員・市町議会議員・首長らへの現金供与」が、44名に対して、合計62回、現金合計2140万円と大部分を占めた。
まさに、大規模な「政治家間の金銭の授受」の事例の典型であり、従来の検察実務の常識からすると、買収罪での摘発は、困難だと考えられた。
ところが、検察は、上記の2つの問題を丸ごとクリアする方法として、処罰の対象を河井夫妻に限定し、被買収者には処罰されないと期待させて「案里氏の選挙に関する金」であることを認めさせるという方法をとった。
検察の取調べで、被買収者らは、明確に「不起訴の約束」まではされなくても、検察官の言葉によって、処罰されることはないだろうとの期待を抱き、「案里氏の参院選のための金と思った」と認める検察官調書に署名した。
河井夫妻の起訴状には被買収者の氏名がすべて記載されたが、100人全員について、刑事処分どころか、刑事立件すらされず、河井夫妻事件の捜査は終結した。これを受け、市民団体が、被買収者の公選法違反の告発状を提出したが、告発は受理すらされず、検察庁で「預かり」になったまま、河井夫妻の公判を迎えた。
従来の検察実務からは考えられない、まさに「禁じ手」とも言える方法だった。
買収罪で逮捕・起訴された克行氏は、初公判では「起訴事実は買収には当たらない」として全面無罪を主張した。
2020年9月の初公判の罪状認否で、克行氏は、
《「当選を得させる目的」はあったが、そのために「選挙運動」を依頼して金を渡したのではない。あくまで、案里の当選に向けての「党勢拡大」「地盤培養行為」のような政治活動のための費用として渡した金である》
として全面無罪を主張した。
ところが、検察官立証が終了し、被告人質問の初回の公判で、克行氏は、罪状認否を、首長・議員らへの現金供与も含め、殆どの起訴事実について「事実を争わない」に変更し、その一方で、その後の被告人質問で克行氏が述べたことは、第1回公判の弁護人冒頭陳述に沿うもので、従前の主張と全く変わらなかった。つまり、事実関係や認識について供述内容は全く変わらないのに、大部分の事実について、結論として「有罪」を認めたのである。
克行氏の被告人質問が行われていた頃に、検察に提出されていた市民団体の告発状が、既に受理されていることが明らかになった。検察にとっては、不起訴にするとしても、「嫌疑不十分」ではなく「犯罪事実は認められるが敢えて起訴しない」という「起訴猶予」しかない。しかし、もともと求刑処理基準に照らせば、「起訴猶予」の余地はあり得なかった。告発人が不起訴処分を不服として検察審査会に審査を申立てれば、「起訴相当」の議決が出ることは必至だった。
2021年6月18日、克行氏に対しては、公選法違反の買収罪で「懲役3年」の実刑判決が言い渡された。
そして、7月6日、検察は、被買収者100人について、被買収罪の成立を認定した上で99人を起訴猶予、1人を被疑者死亡で不起訴にしたことを公表した。
この不起訴処分に対する審査申立てを受け、検察審査会は、広島県議・広島市議・後援会員ら35人(現職県議13名、現職市議13名)については「起訴相当」、既に辞職した市町議や後援会員ら46人については「不起訴不当」の議決を行った。
同議決を受け、検察は、「起訴相当」と「不起訴不当」とされた被買収者について事件を再起(不起訴にした事件を、もう一度刑事事件として取り上げること)して再捜査を行い、「起訴相当」とされた広島県議・広島市議ら35人のうち、重病で取調べができない1名を除いて、全員を、起訴した(略式手続に応じた25人については略式起訴、買収罪の成立を争うなどして略式手続に応じなかった9人については公判請求、そのうち12人が、略式命令を争って正式裁判請求を行い、公判で、「当選を得させる目的」などを否定して無罪主張したが、全員に一審有罪判決が出されている。)。
河井事件取調べでの「不起訴示唆・供述誘導」の問題化この事件で検察が「禁じ手」を使ったことは、その後に問題化することになった。
2023年7月21日、この事件の捜査の過程で、克行氏から現金を受け取ったとして任意で取り調べた地元議員に対して、東京地検特捜部の検事が、不起訴にすることを示唆したうえで、現金が買収目的だったと認めるよう促すやりとりを記録した録音データがあることがわかり、最高検察庁が「当時の取り調べに問題がなかったか調査する」と報じられた。
検察官の取調べで、被買収者側が、「処罰されることはないだろうとの期待」を抱き、「案里氏の参院選のための金と思った」と認める供述をしたからこそ、河井夫妻を買収罪で逮捕・起訴することが可能になった。被買収者側の供述がなければ、そもそも、買収事件の立件自体が困難だった。
以上のような河井夫妻の多額現金買収と、受け取った側の地方政治家ら被買収者の公選法違反事件の背景と経緯については、【“歪んだ法”に壊される日本 事件・事故の裏側にある「闇」】(KADOKAWA)で詳しく解説している。検察官の地方政治家の取調べで、「不起訴にすることを示唆したうえで、現金が買収目的だったと認めるよう促すやりとり」が行われること自体は、もともと想定されていたことだった。
この「不起訴示唆」問題が大きく報じられたのは、やりとりを記録した録音データがあることがわかり、それについて、最高検察庁も、「当時の取り調べに問題がなかったか調査する」と答えざるを得なくなったからだ。
結局、検察実務からすると「禁じ手」と言える方法まで使って、現職国会議員の河井夫妻を狙い撃ちにしたこの事件は、結果的に、検察への信頼を傷つけ、「政治家間の金銭の授受」の買収摘発の困難性を改めて印象づける結果となった。
「河井事件」と「柿沢事件」の共通点と相違点では、東京地検特捜部が強制捜査に着手している柿沢氏の「江東区長選挙をめぐる現金買収事件」は、河井事件との比較で、「政治家間の金銭の授受」の買収事件としての立証上の問題点がクリアできる見通しがあるのだろうか。
まず、両事件の異同を考えてみる。
共通するのは、「当選を得させる目的」での金銭供与が問題とされた選挙に近接して、別の公職選挙があり、その選挙に関する「政治資金の寄附」という主張が行われていることだ。
河井事件は、2019年7月6日の参議院議員選挙での買収事案だが、その前の同年4月21日の統一地方選挙で広島県議会議員選挙、市議会議員選挙が行われた。受供与者の地方政治家の多くは、この選挙に立候補した県議・市議である。
一方、柿沢事件は、2023年4月23日の統一地方選挙で、江東区長選挙と同時に江東区議会議員選挙が行われており、柿沢氏側から金銭が渡ったとされる人の多くは、江東区議会議員だ。
異なるのは、河井事件では、参議院選挙と統一地方選挙との間に約3か月の期間があり、地方選後の現金授受も多かった。県議選・市議選等の「陣中見舞い」のほかに、「当選祝い」の名目とされたものもあった。克行氏の初公判での主張も、
《広島県連では、参議院議員選挙が近づくと、衆参国会議員から立候補予定者・候補者への秘書派遣による、党勢拡大活動、地盤培養活動などの政治活動の支援、選挙運動期間中には選挙運動の応援等が行われ、県連の要請により、広島県連職員、各種支持団体の関係者なども派遣されて同様の活動を行うのが通常であったが、案里氏については、公認が大幅に遅れたため、周知のための政治活動期間・立候補のための準備期間が明らかに不足しているのに、広島県連からの人的支援が得られず、後援会の設立や組織作り、後援会員の加入勧誘、政党支部の事務所立上げなどの政治活動や選挙運動に従事することとなる人員確保など体制作り自体に苦労する状況にあり、県議、衆議院議員として長い政治家としてのキャリアを有する克行氏が、その人脈を頼って、それら案里氏のための活動を行わざるを得なかった。》
(弁護人冒頭陳述)などと、自民党広島県連における従前の「選挙に向けての政治活動」としての資金供与と同様のものだったことを強調するものであり、統一地方選挙という個別の選挙との関係は部分的なものにとどまった。
それに対して、柿沢事件の方は、江東区長選挙と区議会議員選挙が、いずれも統一地方選挙で同時におこなわれており、供与の相手方の多くが区議選の立候補者であることから、「陣中見舞い」という、その選挙に向けての「政治資金の寄附」であることが強調されている。
河井事件では、買収罪に問われた克行氏自身の衆議院の選挙区は広島4区であり、広島県の7つの選挙区の一つであったが、案里氏が立候補した参議院広島地方区は広島県全体であり、金銭供与は広島県全域であり、金銭供与を、克行氏自身の「選挙に向けての政治活動」と関連づけることは困難な面があった。一方、柿沢氏の衆議院の選挙区は東京15区で江東区全体であり、区長選挙、区議選挙の地域と完全に一致する。そのため、柿沢事件では、江東区議への金銭供与を、柿沢氏自身の選挙に向けての政治活動と関係づけやすい面がある。
「供与者・受供与者の自白に依存しない立証」の可能性既に述べたように、「政治家間の金銭の授受」の事案は、目的・趣旨について「自白」を得ることが容易ではなく、買収罪で摘発されることは殆どなかった。河井事件では、受供与者側に、公選法違反で処罰されることはないだろうとの期待を抱かせ、「案里氏の参院選のための金と思った」と認める自白調書に署名させるという方法を使って困難性を乗り越えたが、それが事後的に大きな批判を招いた。
少なくとも柿沢事件では、同様の方法は使えない。しかし、受供与者の多くが現職区議会議員であり、目的・趣旨の認識を認める自白をすれば、自らの議員の地位が失われるのであるから、容易には自白しない。柿沢事件については、自白に頼らず、状況証拠から、江東区長選挙に関する目的・趣旨と、その認識を立証するしかないように思える。
河井事件では、受供与者側が正式裁判で争った事件で、受供与者の検察官調書も、河井氏の公判での尋問調書も証拠請求されなかったが、状況証拠によって有罪判決が出されている。同判決を踏まえれば、「自白に依存しない立証」も必ずしも不可能ではないという見方も可能だ。
しかし、河井事件では、克行氏が、公判の途中で罪状認否を変更し、抽象的に「案里に当選させる目的」を認め、すでに買収罪で有罪判決が確定している。そのような克行氏の供述が証拠にされなかったとしても、裁判所にとっては受供与者に無罪判決を出すことへのハードルとして作用したと思える。また、河井事件の場合は、選挙の時期、選挙区に違いがあり、供与先が、克行の選挙区だけでなく参院地方区の広島県全域に及んでいたこと、議員会館の克行氏の事務所で押収されたパソコン内の「案里2019参院選」と題するファイル内に現金供与先と金額が書かれていたことなど、克行氏に不利な証拠も相当程度あり、「当選を得させる目的」の認定につながった。
それに対して、柿沢事件は、買収の嫌疑を受けている江東区長選挙と、受供与者側が立候補した江東区議会議員選挙とが、実施時期・地域すべてが重なっており、しかも、その地域が、柿沢氏本人の衆議院議員選挙の選挙区とも同じなのであるから、「江東区長選挙で木村候補に当選を得させる目的」「選挙運動の報酬」を否定し、「政治資金の寄附」だとする主張は通りやすい。江東区議会議員選挙の「陣中見舞い」だと主張されれば、その主張を崩すのは容易ではないように思える。
柿沢氏の地元事務所の捜索が報じられた後に、各紙が、一部の金銭受領者が「買収の趣旨を認める供述」をしている等と報じているが、仮に、曖昧に趣旨を認めたとしても、公民権停止で失職することを認識した上での供述でなければ、公判では覆す可能性が高い。
もっとも、柿沢氏側からの金銭の供与については、拒絶した人も複数いるとされており、この場合、公選法違反が成立するとしても、供与者側の申込罪だけであり、受領を拒絶した側には犯罪は成立しないので、「江東区長選挙に関するお金だと思って受領を拒絶した」と供述する可能性が高く、供与者側の「当選を得させる目的」を裏付けることは比較的容易だと考えられる。
また、今回の区議選には立候補していない元江東区議への金銭の供与の嫌疑もあると報じられている。少なくとも、このような場合は、「政治活動の寄附」との弁解は通りにくい。金銭の授受の事実さえ認められれば、買収罪の立証上のハードルは低いように思える。
しかし、買収の申込罪、或いは、元江東区議に対する供与だけに限定して買収罪を立件しただけでは、供与金額は極めて僅少だ。現職の国会議員を買収罪で立件し、起訴するだけの事件とは言えるのか疑問だ。
やはり、柿沢氏側からの金銭の供与の大部分を占める現職区議会議員への供与を買収罪として立件できなければ、柿沢氏本人を買収罪で立件し起訴することについて、検察内部の了承を得るのは難しいであろう。