「低成長とは低利潤率」は画期的な定義
濱田論文の後半はこの数年間思索されてきた「低成長」について、独自の見解が披露された。
ここでは最初に「低成長とは低利潤率」という定義が示され、読者を引き込む。従来は多くの場合、低成長とはGDPの低下や成長率の鈍化、それに失業率の上昇や賃金の停滞などの諸項目を羅列してきた。この伝統の中で、「低利潤率」こそが「低成長」の真の意味であると見抜いた眼力に脱帽する。
「低利潤率」では「定常社会」や「安定成長」は維持できないこの「低利潤率」を正しく受け止めれば、「定常社会」や「安定成長」などはありえなくなる。なぜなら、それが続けば、国民の膨大なニーズを安定的に満たすことが困難になるからである。
放置していれば、国民意識は国家の肥大を求め続けるので、小さな国家には戻れなくなる。むしろ、かつて清水幾太郎がいみじくも指摘した「無料デパート」としての国家(清水、1993:356)こそが、国民からは求められるからである。
ばらまきは国家肥大化につながる「異次元」の公的な子育て支援は緊急ではあるが、国会でもマスコミでも議論の中心は、ばらまかれる金額の多寡に関心が収束する状況が続いている。
ばらまきは国民意識をますます「無料デパート」への期待を高めさせる機能を持つから、国家の肥大化は止まらない。いわば政府自らが国家の肥大化を実践している象徴が、「子育て支援」と称したばらまきである。
もらう側からすれば、2万円よりは3万円が良いのであるが、異次元の少子化対策に加えて、高齢者への支援、失業者救済、国防予算の倍増などが目白押しでは、ますます「租税国家の危機」は解消されない。したがって、「定常社会」も「安定成長」も言葉だけの世界でしかない。
高田保馬の先見性高田保馬が「単なる消費のためにのみ経済的活動が営まるるとすれば、資本主義は終息する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」(傍点原文、高田、1934:204、旧字旧仮名を金子が変換)とのべたのは昭和の始めであった。
投資と消費がかみ合い、競争が激烈であり、イノベーションが繰り返され、新商品の開発と販路の拡大が伴わなければ、資本主義は継続されないことを喝破した箴言である。この短い指摘の中に、資本主義の本質がきちんと把握されている。
「低利潤」では投資がされず、内部留保が増える濱田はこの点を正しく押さえていて、低成長とは富裕層の貯蓄が投資にも消費にも回らず、株式や土地に向かい、企業資金もまた投資に向けられず、内部留保になると分析した。そうすると、社会システムの成長力がますます弱まる。これが分かっていても、「低利潤」では投資のメリットがないから、企業も富裕層も投資への意欲が高まらない。
多様な未来像だが、‘décroissance’では先が見えないしかし、資本主義の「変質」は続くので、未来の構図にはいくつかの多様性が生まれてきた。項目だけ拾い上げると、①資本主義の現状維持、②環境派、③脱成長論などであるが、このうちの②と③は環境保護を盾にした「日和見的である」(濱田、前掲論文)。
さらに問題なのは、③の亜流を形成した‘décroissance’を使ったラトューシュであるとする。私も『社会資本主義』でこの概念と‘degrowth’の両者を取り上げ、日本語訳として共通に使われた「脱成長」にも批判を加えておいた(金子、2023:272-274)。
濱田の追及は鋭く、これらは「精神を変えれば、物的世界も変る!典型的、かつ単純なお説教である」(濱田、前掲論文)とまで言い切った。
資本主義論として修正派と終焉論への批判それ以外の多様な資本主義論として④修正派と⑤終焉論が追加された。なかでも終焉論には手厳しい言及が続く。
代表的な論者として日本人では水野和夫、中谷巌、広井良典、加藤栄一・馬場宏二・三和良一、諸富徹などの作品が取り上げられて、いずれも不十分な結論に終始したことが分かりやすく説明された。
ヒッケルは駄目だが、ハーヴェイやシュトレークは奥が深い同じくヒッケルも取り上げられたが、タイトルとは異なり「次に来る世界は示されていない」ため、「かなり見劣りする」という結論になった(同上)。
ただし、ハーヴェイやシュトレークについては、あまりにも「内容が深く、提起されている論点が広い」から、「論じきれない」とされた(同上)。
社会主義失敗の教訓を活かすしかし資本主義の「変質」は事実なので、濱田なりの論点は「社会主義失敗の教訓を活かす」として、資本主義を支えてきた銀行制度、証券・株式制度、代議制民主主義、社会保障などを修正しながら残す方向を模索するところに絞られた。
資本主義終焉後の環境と孤独・孤立への目配りそのザ・ネクストとしての社会設計の際には、「脱成長」派とは異なった意味での「環境の制約」への目配りを掲げる。
もう一つは、私の造語である「粉末状況」に言及しながら、社会構成員の孤独、孤立、孤立感の緩和にも等しく配慮した。
その後の名称としての『共存主義』と『社会資本主義』論文最後には、資本主義の終焉後の未来社会の名称を工夫した日本での著書、原田尚久『共存主義論』と拙著『社会資本主義』を特にとりあげて詳しいコメントをした。「短評」と表現されてはいるが、内容は本質的なところをついている。
拙著は経済資本、社会的共通資本、社会関係資本、人間文化資本を等しく経済社会システムにつなげて、その「適応能力上昇」を「発展」とみるものなので、経済学で「ついていけない」世界もあるという。
「誰が社会学者の話を聞くのか?」への回答としての『社会資本主義』しかし、単なる終焉後の資本主義論ではない証拠に、人口変容社会と脱炭素をめぐるエネルギー問題まで視点を拡大したことに一定の評価が与えられた。
これは素直に喜びたい。なぜなら、シュトレークが「経済を取り払った社会を理論的に研究する現在の社会学には、もはや未来がない」(シュトレーク、2016=2017:335)と結論して、その上で「誰が社会学者の話を聞くのか?」(同上:346)という問いかけに対して、拙著は一つの回答だったからである。
すなわち、4大資本を経済社会システムに接合して、社会学者の話を聞いてもらえる「新しい資本主義論」をめざしてみたからでもある。
「原理のバラエティと多元化」のもう一つ軸は「協同組合」以上の膨大な研究書を検討して、最終的に自らの「資本主義」を図式化した。「原理のバラエティと多元化」が副題であるが、大企業中心の資本主義ではあるが、「協同組合」の力量を高めて、さらに「共生」や「公共」への配慮を加えて、たんなる「市場原理主義」ではないことを表明した。
大企業とベンチャー企業を中に置き、周囲を「国と地方とNPO」が取り囲んだオリジナルの図はほほえましくもあり分かりやすい。