93年の社歴を持つ株式会社コシダテック。同社が長きにわたり多くの顧客に支持され続ける理由は何なのか。同社取締役執行役員イノベーション推進室長の越田渓氏に聞いた。

――長い社歴のなかで転機になった時期がいくつかあると思います。今日までに戦争をはさんでいますし、簡単に振り返るには長すぎる社歴ですが、主な転機をお話しいただけますか。

越田 創業は1930年(昭和5年)です。私の曽祖父の越田勇が独立して越田商会を立ち上げ、独立前に勤めていた会社の先輩と取引先だった三菱電機さんとのご縁で、自動車用機器の東日本総代理店業務を開始しました。鉄道や船舶向けの発電機や部品を取り扱っていましたが、戦争が始まってからは曽祖父も従業員も出征したので、事業を縮小せざるを得ませんでした。その間は曽祖母などが会社を守ったのです。

 東京大空襲では新橋の木造2階建の社屋が焼失しましたが、金庫だけが焼け残りました。曽祖母は知恵のある人で、すぐに扉を開けると中に熱が入って爆発するからと、金庫の温度が冷めてから開けたのです。終戦後の数カ月は全員自宅で待機、その後に会社は解散しましたが、従業員が1~2カ月でつぎつぎと復員したことで、いつのまにか事業を再開することができました。

――どんな段取りで事業を再開したのですか。

越田 当時のことは現社長の父も知らないので、社史や資料でしか把握できませんが、空襲を免れた多摩川工場でアルミ製の鋳物ナベを作って売ったり、電力不足による停電が多かったので、自家発動発電機を組み立てて販売していたようです。自家発動発電機は、その後、三菱重工さんの技術者に入って頂き、本格的に取り組んだようです。その後も三菱電機さんやメインバンクの大和銀行(現りそな銀行)さんに支えていただきました。50年代に入ると当時の通産省が「国民車構想」を打ち出して自動車国産化に弾みがつき、当社の事業も発展していきます。この国民車構想に関わった通産省技官の越田日高四郎(ひこしろう)が、64年に2代目社長に就任しました。

――その後オイルショックを経て低成長時代に入り、バブル経済以降はデフレ時代を迎えますが、この間に大きな事業転換があったと思います。最も影響の大きかった出来事は何でしたか。

越田 90年代に入ってNTTさんからのお声がけを受けて、2代目社長の判断で自動車電話の取り扱いにチャレンジしたことが大きかったと思います。初期の携帯電話の取り扱いも始め、このチャレンジが現在までNTTドコモさんとの取引につながり、通信事業は大きな柱になりました。一方で海外事業は紆余(うよ)曲折を辿ってきました。80年代に半導体事業の拠点をシンガポールと韓国に開設して、韓国は半導体市場の波に乗って順調に伸びたものの、シンガポールを含む東南アジアはまだまだ伸びしろがあります。中国では自動車関連製品の販売を手がけて、大きく市場を開拓できました。

――この10年間にはどんな事業を開始したのでしょうか。

越田 ドコモショップを開設して順調に伸ばせたので「リテール×自動車」という方針でオートバックスのフランチャイズ店の運営を始めました。さらにオートバックスセブンさんから二輪用品小売専門店「ライコランド」のフランチャイズチェーン本部事業を譲渡され、全国に27店舗展開しています。

――現在の事業は自動車関連、半導体関連、モバイルセールス、IoT関連のソリューション、IT関連サービス、二輪・四輪用品のリテールと多岐にわたっています。事業別の売上構成比を教えていただけますか。

越田 2023年3月期の連結売上高は約650億円で、おおむねの内訳は通信45%弱、国内外自動車20%、半導体15%、二輪20%です。社員は約2100人です。

――事業ポートフォリオのうえで、どの領域を強化したいとお考えですか。

越田 今の事業形態は商社機能もリテールも代理店事業が多く、特にリテールに偏っているので、この形態と同じぐらいに自社でコントロールできる非代理店事業を拡大し、BtoB事業も伸ばしてバランスを取ることを考えています。このうち自動車関連では「動くデジタル製品」ともいえるEVに対する品揃えと付随サービスを強化し、海外事業では東南アジア、インド、南米、さらに将来的には中東、アフリカも開拓したいです。

三菱商事と豪州系投資銀行で学んだこと

――越田取締役は三菱商事の金属グループでニューカレドニアや東南アジアでのニッケル事業を担当し、豪州系投資銀行では金、銀、銅、鉄鉱石など資源に関する金融商品取引に携わって、東京支店で順調に昇進もされたとうかがっています。このキャリアを通じて修得されたことについてお聞かせいただけますか。

越田 三菱商事では船舶の予約とか請求書の作成など細かい仕事まで担当したので勉強になりました。ロンドンとドイツに赴任したときは先輩と一緒に新規顧客の開拓を担当しましたが、スマートかつ泥臭い手法を経験できました。コンサルティング会社との取引でマーケット情報と顧客リストを入手つつ、片っ端から電話やメールあるいは飛び込み営業していったのです。投資銀行時代も含めて、物事を印象ではなくファクトと数字で捉える習慣が身に付きました。とくに投資銀行では上司が米国系投資銀行から移ってきたインド系の人で、数字を細かく分析する手法を学びました。それから情報に対して複数の観点からウラを取ることも、三菱商事と投資銀行で修得しました。

――さまざまな国籍の人と相対してきて、異文化との向き合い方も自然に修得されたのではないでしょうか。

越田 その都度、相手の国籍に文化の違いなどを意識することはありません。大学時代にフランスに留学して、欧州各国や南米、中国の学生たちに関わりましたが、この人はこういう国の人だからと考えたわけではありませんが、いろいろな人がいると自然に合わせるようになりました。この姿勢は就職してからも同じです。

――昨今は「多文化共生」をキーワードに、相手側の文化や宗教を理解することが必須といわれていますね。

越田 私の場合、相手の国の文化や宗教よりも、むしろ性格を見て、ハッキリ指摘するとカチンとくる人には遠回しに話すとか、日本人に向き合うときと対人関係の姿勢は変わりません。日本人でも外国人でも、その人を尊重して接しています。