村上靖彦のエビデンス軽視の姿勢:エビデンス批判になっていない

さて、村上氏は、前項までのような考慮を入れたエビデンス批判をしていません。

各論の論じ方を見れば単なる「エビデンス軽視」であり、エビデンス批判にすらなっていないといえます。

具体的には朝日新聞記事で以下のように言っている部分です。

エビデンスや客観性は、分断の道具として使われてきた気がするのです。

――「分断」ですか。

先日、福島に行ったのですが、住民の方と原発処理水の話題になりました

~省略~

「エビデンスがあるから処理水は安心だ」と言われても、健康に関わる心配は絶えないでしょう。

ある人は「エビデンスに殴られているような感じがする」と言っていました。政治や大企業はエビデンスを振りかざし、彼らの恐怖を無視している。不安の声をふさいで、一人ひとりを無力化しているのではないかと思います

放射線に対する感受性が一般人よりも著しく高い人間が居たとして、ALPS処理水は飲料水ではありません。また、海洋放出されて希釈され、海域の魚等に蓄積もしませんし、漁獲された魚は世界で最も厳しい基準のもと検査され、店頭に並ぶ魚の放射性物質の量はなんら健康に影響をあたえないことになる、ということが明らかです。

普段我々が食べる魚にも含まれる放射性物質をそんなに心配するならば、日常生活は送れません。

「未知の核物質」烏賀陽氏「自分の発言ではない・切り取り・ウソ・悪質デマ」福島第一原発ALPS処理水海洋放出

観測され数値化された科学的な安全性と常識的な将来予測による安全性がある中で、それでも不安を感じる個人が居ること自体は仕方がないですが、その不安に社会がいちいち寄り添うことは、当該個人も含めた大多数の人間社会の害となる。

歴史的現実は、エビデンスによって論じる者よりも、不安が分断の道具として使われてきたのであり、それは個々人の生命・身体の健康を奪ってきました。以下の記事で非常に整理されています。

処理水問題の経験から社会に組み込むべき「風評加害」への免疫とリテラシー

高橋純子「エビデンス?ねーよそんなもん」と同じ態度

「エビデンス?ねーよそんなもん」

日刊ゲンダイが朝日新聞の高橋純子編集委員にインタビューした記事が発端となって広まりましたが、元ネタは彼女の著作である【仕方ない帝国/河出書房新社】の記述であり、彼女の中のある気持ちが出てくる根拠となるエビデンスは無い、という文脈でした。なので、朝日新聞がエビデンスなく報道をするという意味ではありません。

が、ゲンダイの記事では安倍政権に対する彼女の得体のしれない否定的な感情を書かなければならないという欲求が吐露されており、結局は”エビデンスが無い中でお気持ちを書いていた”ことになります。

高橋氏はその動機は「権力に対峙」するためと言っており、実はこの姿勢は村上靖彦氏も同様です。

彼の著作では「政府の政策によって零れ落ちる個人」の視点が提供されていますが、個人の経験や理念よりもエビデンスを重視すべき場面でも個人の「語り部」的役割を重視し、その基準すら示さず曖昧のままです。

制度を整備して多数の人間を守る社会を作る思考と個人の視点の思考。

本来はそれらを止揚させるのが思想なのに、個人の視点のみを強調していることには違和感しかありませんでした。

私が「総論としては正当なことを言っているが各論は不当な主張である」と評しているのはこうしたことからです。

本稿ではそういう意味のない言説を取り上げるだけでとどまるのではなく、実際に有益な考え方として何があるのかを示しました。本件を受けて物事を先に進めるか否かは我々次第です。

編集部より:この記事は、Nathan(ねーさん)氏のブログ「事実を整える」 2023年11月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「事実を整える」をご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

【関連記事】
「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
大人の発達障害検査をしに行った時の話
反原発国はオーストリアに続け?
SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
強迫的に縁起をかついではいませんか?