総合商社・三菱商事の「2022年度 有価証券報告書」が公表され、従業員の平均年収が単純計算で1800万円を超えているとみられることがわかった。同社は同年度連結決算で純利益が前年度比2432億円増益の1兆1807億円となり、同社としては過去最高益を記録。一般的に企業の従業員の給与は前年度の実績が反映されることが多く、今年度(23年度)の同社従業員の平均年収はさらに増える見込みだ。
今回の有報の「第5 経理の状況」―「損益計算書関係」―「販売費及び一般管理費」によれば、22年度の「従業員給与」の総額は415億1300万円で、「従業員賞与」の総額は580億4300万円。三菱商事のHPによれば同社単体の従業員数(23年3月31日現在)は5448名であり、単純計算で一人当たり平均の年間給与は762万円、年間賞与は1065万円で、「年収」としては1827万円となる。総合商社社員はいう。
「この数字には新入社員など若手の金額も含まれており、30代後半~40歳を超えると2000万円には手が届いているのでは。総合商社は住宅手当や海外赴任手当など各種手当のほか、福利厚生も充実しているので、実質的な年収はもっと上振れする。大企業はどこもそうだと思うが、社員個人の等級やパフォーマンスへの評価、所属部署の業績、会社の業績など複数の項目の合算で給与・賞与が決まるので、三菱商事は前年度これだけ業績が良いということは、当然ながら今年度の給与等は引き上げられるだろう。同社の多くの社員はハードワークを強いられているし、個人としての業績が悪かったり昇進が遅れれば他の同期と比べて年収が低くなってくるだろうが、それでも他の業界・企業に比べれば相当恵まれているのは間違いない」
当サイトは22年9月24日付け記事『年収2千万円、退職金9千万円?三菱商事、待遇が異常に良い納得の理由』で同社の内情をレポートしていたが、今回、改めて再掲載する。
――以下、再掲載――
東京都千代田区丸の内に本社を置く、三菱グループの総合商社・三菱商事。伊藤忠商事、三井物産、丸紅、住友商事とともに5大商社と呼ばれる同社は、鉄鉱石など資源系事業から食品などの消費者向け事業まで幅広い事業を世界規模で行う企業である。コロナ禍で業績は下がったもの、2021年度3月期の売上高は約12兆8845億円、純利益は1725億円と総合商社トップの業績を叩き出している。
そんな三菱商事は、社員の年収や退職金も破格の額だと噂されている。8月にTwitter上で「転職サイトの中の人|年収1,000万円図鑑」さんが、三菱商事の総合職の年収は推定1900~2300万円、退職金は9200万円にも上ると投稿し、話題に。なかには「ツイート主の投稿よりも、三菱商事の退職金は多い」「新興国に駐在するとさらに生涯賃金が増える」などの反応もみられる。
そこで今回は、経済評論家で百年コンサルティング代表の鈴木貴博氏に、三菱商事の年収や退職金事情について聞いた。
三菱商事はなぜ給料が高いのか?
鈴木氏は「結論から言うと三菱商事の年収や退職金が高いのは事実」だと語る。
「三菱商事を含む大手総合商社は、昭和の企業の常識だった終身雇用、年功序列という日本型のビジネスモデルが唯一生き残っている業態です。ですから出世のペースは遅い代わりに順当に歳を重ねていけば、賃金は自然と上がってきます」(鈴木氏)
多くの国内企業が相次いで年功序列を廃止するなか、三菱商事が年功序列を維持しつつ、高い給与や退職金を支払えるのはなぜなのか。
「三菱商事のような総合商社は、貿易だけではなくアメリカの投資ファンド的な事業を導入しています。つまり、リスクのあるビジネスにも巨額のお金を投資し、利益を期待できれば迷わず事業開発への投資をしているんです。
さらに言うと、ただ株主となって事業を進めるアメリカの投資ファンドとは違い、日本の総合商社はグローバルな貿易圏を一から作り、権益を確保することに長けているのです。ウクライナ侵攻で今話題となっている『サハリン2プロジェクト』は、三菱商事、ロシアの国営ガス会社ガスプロム、三井物産の4社が出資する石油・ガス複合開発事業ですが、プーチン大統領が権力を掌握した頃から、三菱商事がロシア政府と粘り強く交渉して進めてきた一大事業の例といえるでしょう。
それから、優秀な商社マンをどんどん現地に投入していくことも日本商社ならではの強み。現地で合弁会社を作って、力のある日本人ビジネスマン主導のもと、開発、オペレーションを指揮しています。こうした投資ファンド的な事業の成功により、三菱商事は損失のある事業をカバーし、大量の高齢社員に対しても相応の給料や退職金が支払えているのです」(同)
そして、三菱商事の経営が驚異的だといえるのは、その長期的な戦略にあると鈴木氏は力説する。
「現在の社長・中西勝也氏が入社した85年頃の三菱商事は貿易が主体でした。しかし、当時は大手企業が現地に駐在員を派遣し、直接原材料を交渉する手段が確立されつつあったので、“商社はいらなくなる”といわれていたのです。そこで中西氏の世代から、貿易だけでは商社は生き残れないということで、新しいビジネスとして投資事業を開始。足掛け40年ほどで成功して現在に至っているので、先見性と知略に溢れた戦略だったといえるでしょう」(同)