ただ、それだけだと「他の会社と差を付けられる領域」がなくなってしまうわけなので、「突き抜けた強み」を作り出すには、

常にコチョコチョコチョコチョ微調整をし続ける事が必要な課題で、顧客側から見てアップサイドが大きい部分

↑こういう部分を戦略的に選び出して、そこに「従業員の生きがいや注意」を引き付けることで、「他との圧倒的な差」を作り出すことが重要になってくる。

トヨタの生産方式も、「あえて自動化しすぎない」部分を残すことで伸びしろを作るみたいなことが極意に含まれているらしいんですよ。

クックマートは、「差をつけるべき課題」を適切に切り出した上で、そこに「従業員の生きがいレベルのコミット」を引き出して作用させることで、「食品スーパーとして明らかに他と違うレベル」を実現している素晴らしさがあるということなのかなと思いました。

ここが、よく日本である「従業員の生きがい搾取」はするけど「戦略的差別化要素」は皆無・・・・みたいな根性論経営とは隔絶している部分なんだってことですね。

3. 「クックマート」的なコミュニケーションを今後日本はどう活かしていけばいいのか?

私は自分のクライアント企業で、こういう「水とアブラの双方向性」を実現できて、業績もちゃんと出している経営者には、

「もっと大きな役割を日本社会で担う覚悟をしてくれ」

…と毎回話すたびに言いまくっていて、彼らは謙虚である事が多いので「いやいやそんな」って感じの反応が多いんですが、徐々に考え方を変えてもらいたいと思っています。

クックマートの白井社長も、あるファンドと付き合いができて、ある程度「拡大路線」に入る流れにあるみたいで、めっちゃ期待してます。

マジでうちの近くにクックマート出店してほしいもんね(笑)

でもここで問題なのが、こういう「有機的」にキチンと組み上げられてできている優秀な会社に、ファンドが入って無駄に拡大路線を強要すると、だんだんスカスカになってくることってよくあるんですよね。

「コメダ」はまだいいけど、「スシロー」は正直言ってなんかだんだんスカスカになってきた感がある(笑)

「水の世界」と「アブラの世界」がマヨネーズ状にうまく混ざり合っていた状態ではなくなって、徐々に「水だけ」の部分が突出してスカスカになってきてしまうというのは「よくある話」ではある。

在野の経済学研究者?みたいな存在で結構有名な長沼伸一郎氏という人が、こういう現象を「縮退」という物理用語を使って説明していました。

『現代経済学の直感的方法』

(↑私の発想から比べるとちょっとマルキスト的に感じられて違和感はありますが、でもかなり自分と似てる見方をしている人だなと思います。この本オススメです)

とはいえ、「縮退」が良くないからといって、物凄く限定された範囲のみで小さく小さく「有機的にうまく働いている理想像」が温存されていて、そこ以外は結局文化的にスカスカになっていく日本・・・みたいになっても困るんですよね。

だから全体的に、「クックマート」的に良い事例には、自分たちの強みが失われないペースを保ちつつでもいいから、色んな資本主義の仕組みをちゃんと使って拡大していって、「良い職場」が安定的に広がって行ってもらうことは日本社会にとってめちゃ大事なことだと思っています。

「20年間昭和の経済大国の遺産を食い延ばしてきたデフレ時代」が終わり、インフレ局面に入った以上、ある程度「優勝劣敗」的構造が出てくる中で、ちゃんと「マトモな経営者の傘下に入る領域」を増やしていく変化を起こすことが大事。

そうすることで、「現場レベルの工夫をちゃんと合理的な戦略と合致させるカルチャー」を普及させて、以下記事で書いたように、「ビッグモーター型の根性論カルチャー」を置き換えていってほしい。

  1. 「両取り」の文化がある程度普及すれば、「水の論理」が縦横無尽に通る世の中に変わる

    とはいえ、そこ以後は、「クックマート型」のカルチャーが日本全体を覆い尽くすということも不可能だと思っているんですよね。

    そもそもそういう「密」な人間関係が嫌いな人も多いし、そもそもやはり国全体、人類社会全体みたいなマクロな現象に対しては「クックマート型のアプローチ」はあまりにヒューマンタッチすぎるところがあるからね。

    ただし、社会の中で「水とアブラがせめぎ合っている部分」において、適切に「双方向コミュニケーション」ができるようになれば、社会全体レベルで「水の論理」でサクサク決着すればいいようなところで延々と押し合いへし合いになることがなくなっていくだろうと考えています。

    例えば、以下記事で書いたように、

私は最近の「東京の再開発」が一種のワンパターンに陥ってしまって、東京に暮らす多くの人の本当の「気持ち」を吸い上げられていないんじゃないか?っていう違和感は凄いあるんですよね。

かといって、「ありとあらゆる開発に一本調子で反対する人々」の中に新しい希望を感じるかっていうと、こっちは「ゼロ」レベルで全くないんですよ。

それに比べれば何らかの「再開発側の工夫」の中に可能性を自分としては感じるところはある。

こういうのは、もう「完全に両極端に分断されてしまった」なら、もうどうしようもない…という感じではある。

築地の豊洲移転とか、マイナンバーカード関連に至るまで、ありとあらゆる陰謀論を動員して「なんでも反対する」みたいな人たちの言うことを聞いていてもぶっちゃけどうしようもない。

コロナ対策で「台湾は凄いけど自民党政府はクズ!」みたいなことを言いまくってた人が、マイナンバーカードには全力で反対してるとか頭おかしいですからね。お前はどうしたいんだと。

「じゃあマイナンバーカード普及させるのに協力しろよ。全然協力しないから無理やり健康保険と一緒にするみたいな事が必要になるんだろうが」

…みたいな構造はどうしてもある。

民主主義国家だから「そういう異議申し立て」を抑圧しちゃいけないが、「そういう形で噴出」させてる時点でもうどうしようもないという事がどんどん明らかになってきている時代なんですよ。

要するにそういう「不満」は、ちゃんと「水の論理」が「アブラの世界の自律性や創意工夫」を吸い上げられていないというミスマッチを象徴するものとしてのみ理解するべきなんですね。

だから、豊洲移転をやめるとか、マイナンバーカードをやめるとか、そういう方向ではなくて、社会のあちこちで「ちゃんとアブラ側の創意工夫を吸い上げられる経営文化を作っていく」ことによって乗り越えるべき問題なんですよ。

ちゃんと「アブラ側の工夫がマトモな経営戦略と合致して吸い上げられている実感」が生まれてくれば、「なんでもかんでも陰謀論まで動員して全部に反対する」みたいな運動は、根っこのところから枯らしていけるはずだと感じています。

豊洲移転とかマイナンバーカードは、何があろうと堂々とやっちゃいつつ、「別のところ」でちゃんと「本当の双方向性」を実現していくことが大事だということですね。

むしろ今までの日本はこういう「水の側の論理」にありとあらゆる側面でとにかく全部反対する勢力が大きすぎたので、ちょっとでも「双方向性」とか言い出すと何もできなくなっちゃうという不具合が多すぎた。

つまり、こういう「クックマート型の双方向性」を社会のあちこちで実現していくことは、「水の論理的に見れば明らかにやるべきこと」で延々と社会が押し合いへし合いになって社会が混乱するみたいな状況を避けるためにも重要なことなんですね。

同じ形で、「こういう双方向性」を中小企業レベルでちゃんと実現できるようにしていけば、「大企業のグローバル競争」レベルの話においては、ある程度「サクサクと水の世界の論理」を通用させていくことが可能になる変化は起きるだろうと思います。

5. 「人類社会の分断をつなぎとめる新しい希望」としての日本

過去20年は、頭で考えた観念的な「正義」をそれ以外の社会に無理やり押し込もうとする欧米由来のムーブメントが強すぎて、人類社会が「真っ二つ」に分断されてきた時代なわけですよね。

「欧米内」でも社会が真っ二つになって「インテリが言うことの全部逆をやってやる!」みたいなムーブメントが社会の一方で止められなくなってしまっているし、人類社会全体で見た時に、「非欧米」の第三世界がうっすらと共有する「欧米の上から目線で断罪してくるのマジむかつくよね」みたいな気分が止められなくなってきつつある。

「欧米的理想」自体を否定するものではないが、それが「無理やり押し付けられる」ことによって、実際にその「理想」の範囲内で生きる事ができる人間の数がどんどん減ってしまうような状況になってしまう。

なぜこうなるのか?っていうと、結局「水の世界の理想」を「アブラの世界」に浸透させていくにあたって、「アブラの世界」には彼らなりの価値観や自律性やそのローカル社会の細部への責任感があるということを、全然尊重せずに無理やり押し込むことをやりすぎたからだと私は考えています。

要するに、「クックマート型」の経営によって、「アブラの世界の自律性」が崩壊しないように尊重しながら、「水の世界の論理」を丁寧に浸透させていくような、そういう「メタ正義的な文化」こそが、今人類社会で最も必要とされているものだということです。

単純化して言えば、SNSで

「僕らみたいな”知的で誠実な人間たち”と違って世の中には、ゲスな野蛮人どもが多くってほんと困るよねえ」

…みたいなことを言い続けるだけで良い簡単なお仕事です…みたいなムーブメントに力を与えすぎてきた時代を巻き戻す必要があるってことなんですよね。

その「ゲスな野蛮人ども」がその社会で果たして来た役割とか、そのローカル社会が持っている事情とか、そういうのを一切「対等な目線」でテーブルにあげて一緒に解決する姿勢がなく、人工的に作られた観念的基準で断罪しまくって、

「嫌だねえ、こんなゲスどもは嫌だねえ」

みたいな事を言いまくるのが「正義」だという発想自体を、そろそろ終わらせなくてはいけない。

人類社会全体に占める「欧米」のGDPシェアが減り続ける時代にあって、それでも「欧米的な理想」が雲散霧消してしまわないようにするには。

「全く別個の論理と精神を持ったアブラの世界」のローカル的事情に対してちゃんと対等に「尊重」をしていきながら、その上で丁寧に「水の世界の論理」を溶け合わせていくようなそういうカルチャーこそが求められているんですね。

過去20年の「ガチのネオリベ経済」にハダカで飛び込んでしまった国は、こういう「全部社会の逆側にいるクズどもが悪いんで、自分たちは一切悪くないよね」というような分断が止められない状況にまで追い込まれてしまっている。

一方で日本では、昭和の経済大国の遺産を食い延ばし食い延ばし、アベノミクス的な「理外の理」みたいなものまで総動員して、その「逆側の立場」との有機的な繋がりが一応残っている幻想を崩壊から守ってきたところがある。

勿論、いつまでもその「幻想」だけを食い延ばす事はできないし、今後大きな環境変化の中で日本社会が挑戦しなくてはいけない課題はたくさんあるが、それでも「過去20年の世界経済の狂騒」から距離をおいてきたからこそ、これからできることがあるのだと私は考えています。

それは、フランス革命以後ずっと続いてきた、「欧米的発の概念的な正義を、逆側の”悪”に無理やり押し付ける」という構造自体の終焉をもたらすことになる。

日本の批評家小林秀雄が、

「美しい花」がある、「花の美しさ」という様なものはない。

…という言葉を残しました。

欧米型に概念的に考案された理想は、「その時点」では単なる「幻想」にすぎない。

ひとつひとつの「美しい花」は実在するが、「はなのうつくしさ」などというものは実在しない幻想でしかない。「信仰の自由」は尊重するべきだが他人にそれを押し付けられても困りますよねという話でしかない。

世界各地のローカル社会の人間関係の縁の連鎖の中にその「幻想」を作用させ、そしてリアルな「生活」の変化の中で溶け合わせて新しい「クックマート型の”水とアブラの間の双方向コミュニケーション”」として結実させることによってのみ、その「幻想」ははじめて「受肉」することになる。

過去20年の、「幻想」をとりあえずの観念的な基準として世界中に無理やり押し込むことが優先された時代が終わりに近づいている。

そして今後は、それをいかに中国やロシアやタリバンで暮らす人民までシームレスに繋がり引きはがすことは決して出来ない『人間関係の義理の連鎖』の中で「受肉」まで持っていけるかが重要な課題となる時代が来る。

そこでは、日本人が集合的に必死に過去20年こだわり続けて「ある一線」を守り切ってきたことが、「世界」から新しい希望として理解される時代が来ます。

堂々と進んでいきましょう。

「ボクたちは知的で誠実な一握りの善人たちだけど、アイツラはゲスで野蛮なクズどもだよね!」ってSNSで言いまくることが「正義」の行いだと思ってる奴らに、「本当の正義」ってのがどういうものか見せつけてやろうぜ!!!

そういう「ビジョン」を実現するための方法について、クライアント企業で平均年収を150万円ほど引き上げる事に成功できた事例や、日本全体の政治テーマに至るまで、分断されゆく議論を超える方向性を描く方法について書かれた以下の本をぜひどうぞ。

『日本人のための議論と対話の教科書』

つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。

編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年8月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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