新ルール下でV10の咆哮を上げたマクラーレンMP4/5
ホンダコレクションホールに展示されている、1989年のF1タイトルを獲得したMP4/5プロスト車
さて、新ルール初年度の1989年でも圧倒的強さを誇ったホンダですが、それには他のエンジンサプライヤーや、独自のエンジンにこだわるフェラーリに対しても圧倒的なアドバンテージを誇る、ホンダの3.5リッターV10自然吸気エンジンが大きな役割を果たしました。
シャシーやサスペンションは古臭くとも、新技術をバンバン投入してくるライバルがトラブルに苦しんでいるうちは、「信頼性の高いシャシーにパワフルなエンジンの組み合わせが強い」というものです。
神格化されたイメージとは裏腹にムラっ気が強く、優勝かリタイヤを繰り返すセナに対し、セナがリタイヤすれば自身が優勝、マシントラブルでも着実に完走してポイントを稼ぐプロスト、両ドライバーの関係悪化は目に余ったものの、チームはとにかく勝ったのです。
ついに堪忍袋の緒が切れたプロストがフェラーリへ移籍、後釜のゲルハルト・ベルガーもその穴を埋められなかった1990年でさえも、改良型のMP4/5Bはセナが6勝し、期待に応えて見せました。
その頃の日本では、1989年12月29日に日経平均株価が3万8,957円44銭の史上最高値を記録、1990年はその頃の勢いこそなかったものの、まだまだ好景気は続くと信じられており、ホンダF1の栄光もまた続くと思われていたのですが。
「時代遅れ」となりつつ奮闘したMP4/6とMP4/7
第2期ホンダF1最後のマシンとして1992年シーズンを戦った、マクラーレン ホンダMP4/7 ©Dan74/stock.adobe.com
1991年、ホンダはついに第1期F1でのホンダRA301以来となるV12エンジンEA121Eを投入、V10エンジンRA101Eもティレルへ供給して2チーム体制となりますが、この年から「ホンダエンジン頼り」のツケが回ります。
他チームが電子制御スロットルやセミオートマ、アクティブサスといった新技術を次第にモノにし始めたのに対し、マクラーレンMP4/6はシャシーもミッションもサスペンションも旧態依然としており、ティレル020に至ってはホンダエンジンを完全にもて余しました。
この年、頭角を表したのはかつてホンダエンジンで2年連続コンストラクターズ・タイトルを獲得、その後は苦労したもののルノーエンジンと各種電子制御デバイスの熟成で、本来の実力を発揮し始めたウィリアムズ。
対するマクラーレンは結局のところホンダの新型V12エンジンが頼りで、ウィリアムズがまだ信頼性に悩んでいるうちこそ勝てたものの、克服されてしまえば「セナとベルガーが必死で路面へ押し付けるMP4/6を、ホンダエンジンで無理やり走らせている」に過ぎません。
緒戦のアドバンテージと、後半投入した軽量シャシーでどうにかセナ7勝、ベルガー1勝を上げてコンストラクターズタイトル4連覇、セナも2年連続、3度目のドライバーズタイトルを獲得したのが、マクラーレン・ホンダの限界。
翌1992年も緒戦にMP4/6B、それ以降は新設計のMP4/7で奮闘するマクラーレン・ホンダですが、もはやエンジンだけでなく、あらゆる面からのトータルバランスで勝負するようになっていたF1では通用しなくなっていました。