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ヒッケルの“Less is more.”(『資本主義の次に来る世界』(東洋経済新報社、2023年5月刊)が話題になっている。私も6月に「資本主義の次に来る世界」を描く目的で『社会資本主義』を刊行したばかりなので、類似点が多いだろうと想像して読んでみた。
その期待は裏切られたが、末尾の「疑問を持つことは、何より強力である」(ヒッケル、2020=2023:296)に鼓舞されて、「大局を見失う恐れ」(同上:256)を避けながら、「新しい、より知的なあり方を模索する」(同上:258)試みを続けてみたい。
その延長線上で、以下は経済社会学から見た経済人類学的な『資本主義の次に来る世界』への疑問とコメントになる。
類書も刊行されているヒッケルは巻末の「謝辞」で、その最初にカリス、二番目にラワースを挙げたが、いずれも日本の学界ではすでに馴染みの著書を刊行している。カリスは共著の形で『なぜ、脱成長なのか』(NHK出版、2021年)、ラワースは『ドーナツ経済』(河出書房、2018=2021年)を出版した。後者は、斎藤が『人新世の「資本論」』(集英社、2020)で激賞したことでも話題になった。
カリスの共著は、ヒッケルと同じ‘degrowth’をキーワードとしていて、両者ともに「脱成長」という翻訳になっている。ラワースは独自の21世紀のコンパスとして「ドーナツ経済」を提示した。さらに、同時期のラトゥーシュも‘degrowth’を意味する‘décroissance’を書名にして、‘growth’‘ croissance’(成長)の否定を行ったが、これらの日本語訳にも「脱成長」が使われた。
例外はサターであり、‘décroissance’を「脱成長」ではなく、「減成長」としたうえで、「質の高い生活」としての「繁栄」(flourishing)と結びつけた(サター・中村訳、2012:180)。残念ながら、それは10年経過しても日本の学界や翻訳では共有されずに終わった注1)。
接頭辞 ‘de’ の意味しかし表現論の観点から、‘degrowth’や‘décroissance’に翻訳語として「脱成長」を充てることには疑問が残る(金子、2023:274)。まずこれについて少し検討してみよう。
日本の大型英和辞典の一つである『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)では、接頭辞の‘de’については、①分離、②否定、③降下、④逆転などの意味が示されてはいるが、「脱」という使い方は無いようである。同じく『新英和辞典』(研究社)でも、これらの他に⑤悪化・低下、⑥除去、⑦反・非、という使い方も紹介されているが、ここにも「脱」という意味はない。
さらに『仏和大辞典』(白水社)を見ても、‘dé’には「脱」とは異なる反対、剥奪、分離、除去、逆動作、低減という使い方しか出ていない。
‘de’ は「脱」なのかこれらを踏まえて普通に英語やフランス語を学んできた経験からすると、‘de’は「否定」や「反対」の接頭辞なのであり、無理に訳しても「脱」には届かない。
だからヒッケルがサブタイトルに使った‘Degrowth’もまた、日本語訳では「脱成長」と訳されているが、カリスやラトゥーシュの翻訳と同様に疑問を禁じ得ない。
かりに‘growth’を「成長」と訳せば、通常の語感では‘de’がその否定ないしは反対を意味する接頭辞なのだから、「成長否定」ないしは「非成長」か「反成長」が浮かんでくる。ところが、この分野における日本語の翻訳書ではほぼ申し合わせたように「脱成長」としてきた(ヒッケル、前掲書:35)。
‘de’ が「分離」を意味しても疑問は残るかりに両者ともに‘de’が「分離」を意味する接頭辞だから、無理して「脱」を充てたとしても、「分離」(separation、séparation)は‘separate milk’(牛乳を脱脂する)に象徴されるように、元とは異質な状態を表わす。すなわち、‘separate milk’はすでに‘milk’とは違うものである。にもかかわらず、「脱成長」は①成長させるべき部門を必要性が低いところと区別する(ヒッケル、前掲書:37)、「脱成長はGDPを減らすことではない」(同上:38)というような趣旨が語られている注2)。
このような主張をしたいのならば、‘degrowth’や‘décroissance’(翻訳ならば脱成長)などは使わず、独自の造語を用意したい。
「植民地化」は「瑣末なもの」かヒッケルの表現とその翻訳に関しての疑問の筆頭は‘de’の使用とその訳し方にあるが、ヒッケルはその主張に読者が違和感を覚えるような場合には、あらかじめ「逃げ道」を用意している点を第二として指摘しておこう。以下、いくつか例示してみる。
たとえば「経済が成長しなければ、すべてが崩壊する」(同上:106)と断言しつつも、その直後には「もっとも、わたしは成長そのものが悪いと言っているのではない」(同上:106)とする。しかも「成長ではなく、成長主義・・・・が問題」(傍点原文、同上:106)として、これに比べるとイギリスなどが数百年行ってきた「植民地化」は「瑣末なものに見えてくる」(同上:107)と断言した。
論理一貫していない果たしてそうだろうか。植民地化とともに進んだ資本主義の台頭時期の事例に、ヒッケル自らが「先住民族の大虐殺、大西洋奴隷貿易、ヨーヨッパ列強による植民地の拡大、イギリス領インドの飢饉」(同上:177)を挙げて、その直前で「瑣末なもの」と断言した「植民地化」を痛烈に批判したことで、専門書としての論理一貫性はほころびたようである。
加えて、「資本主義の全歴史を通じて、成長は常にエネルギー消費量を増加させてきた」(同上:111)と言いながら、すぐ後には「もっとも、エネルギー消費量とCO2排出量に本質的な・・・・つながりはない」(傍点原文、同上:111)とする。
さらに「クリーンエネルギーは多ければ多いほどよい」(同上:112)とも述べるが、クリーンエネルギーを得るための装置、すなわち太陽光パネル、陸上風力発電機、洋上風力発電機の原料採掘、工場での製造、製品の移動、取付工事がどれほどのCO2排出をするかについては何も触れない。これでは論理性に欠けると言わざるを得ない。