専業主婦が大幅に減少
2004年段階では、「児童のいる世帯」での専業主婦は43.3%であったが、この20年近くで半減に近いところまで下がった。
この間、「共働き・共育て」という表現もマスコミでは定着したし、40年以上続く政府の「両立ライフ」、「ワークライフバランス」、「両立支援」(『骨太の方針』)に示されるように、「多様で柔軟な働き方の推進」こそが重点項目になっている。
最終的に『骨太の方針』(:19)でも言われたように、「女性が尊厳と誇りをもって生きられる社会を実現」は正しいが、今回の「国民生活調査」でも、「児童のいる世帯」における25%余りの母親が「尊厳と誇りをもって生きている」「専業主婦」であることへの理解は進んだのか。
「包摂」と「共助」社会づくりさて『骨太の方針』は、第1章「マクロ経済運営の基本的考え方」、第2章「新しい資本主義の加速」、第3章「我が国を取り巻く環境変化への対応」、第4章「中長期の経済財政運営」、第5章「当面の経済財政運営と令和6年度予算編成に向けた考え方」に分かれている。
包摂社会ここで取り上げるのは、第2章の「4.包摂社会の実現」である注7)。
そこでは、「包摂社会」や「共生・共助社会づくり」そして「孤独・孤立対策」が高らかに謳われた。すなわち、「一人一人が生きがいや役割を持ち、助け合いながら暮らせる包摂的な共生社会づくりを推進する」(『骨太の方針』:19)。この文章の意味は鮮明であり、これからの「社会づくりの理念」としても有効であろう。
なぜなら、「人が、有意義な人生を送っていると感じるのは、思いやり、協力、コミュニティや人とのつながりを体現している時」(ヒッケル、2020=2023:187)だからである。
誰一人取り残さず、確実に支援を届けるであれば、「誰一人取り残さず、確実に支援を届けるため、こどもや家庭への包括的な支援体制づくりを推進する」(『骨太の方針』:18)はどのように具体化されるか。
とりわけ、「国民生活調査」結果のうち、
(1)全世帯の31.2%を占める高齢者世帯を取り残さない「包摂」の方法 (2)「児童のいる世帯」18.3%の「包摂」の方法は「児童のいない世帯」81.7%のそれと同じか違うか (3)児童のいる世帯の母のうち「仕事あり」75.7%と「仕事なし」(専業主婦)24.3%
の「包摂」方法が特に重要になるであろう。
決意表明を越えて(1)については、「高齢者世帯」全体の「包摂」はもちろんだが、その内の過半数の「単独世帯」の「孤独・孤立対策」も重要になる。『骨太の方針』では10行ほど書いてあるが、実際には「実態調査結果等を踏まえ、全省庁で孤独・孤立対策の視点を入れて施策を推進する」(:21)ということで、決意表明に終わっている。
(2)については、「異次元の少子化対策」がらみで、「児童のいる世帯」の包摂をどのように優先するか。これは「社会全体」の定義にも直結するが、「児童のいない世帯」がいかに「児童のいる世帯」を支援できるかが、ラストチャンスとしての「異次元の少子化対策」の成否を分ける。
これまでのように、社会全体の中での子育てを、産んだ親、親が働く職場、子どもが通う義務教育の学校、中央政府、自治体、地域社会の6つのアクターが支えるだけでは、「児童のいる世帯」と「児童のいない世帯」の格差は解消されない。
年末の財源論までに草案が欲しい(3)「児童のいる世帯」の母のうち、75%の「仕事あり」と25%の「仕事なし」(専業主婦)の包摂方法をいかに工夫するか。どちらも多様な生き方として「肯定」できるのか。「共働き・共育て」はどうなのか。これらについて、それぞれの立場から主張をぶつけ合うことが可能か。
厚生労働省の大がかりな「国民生活調査」の結果が出たのであるから、これも活用して、たとえば「敬老の日」を目途に「包摂」や「孤独・孤立対策」そして(3)に関わる草案を出し、年末の財源論までにそれと整合させられるだろうか。
以下、社会学的な知見も交えてこれらに有益と思われる素材を提供する。
集合意識の衰退社会システム特性のうち「集合体志向」が薄れ、個人主義(me-ism)の様相が濃厚な「私化」が普遍化した現代日本社会では、個性が尊ばれ自己責任が当然視されている。しかし家族でも地域でも組織でも、そこに集積する個人の人生はそれぞれに社会性を帯びた積極的関係を維持している。
同時にこの自己責任に隣接する個性重視という基本的傾向は受け入れながらも、人間は自分一人だけの生活も人生も困難だから、いわゆる「群居の欲望」(高田、1949=1971=2003:47)もまた払拭されることはない。
地域性を伴う群居一般的にいえば、群居は地域性を前提にしても組織性に依拠しても成り立つが、65歳前後で職場という後ろ盾を失う高齢者とその配偶者は、地域性を軸とする以外には群居ができなくなる。すなわち一定の住所に定住して、地域の中の群居にならざるを得ない。
高田の表現では「接触の久しさ」となり、これは地縁、血縁、事縁(仕事利益の関係からの接触の多い事)に結びつく(同上:48)。
相違への恐怖「群居の欲望」は、現代社会に蔓延する「相違の恐怖」(fear of difference)の予防ないしは解消にもつながる。
社会学では、性、世代、階層、コミュニティ、健康などの「相違」についての理解を進めて社会的寛容性を広げることで、「相違」を超えた信頼と協力を見出していくことが求められてきた(Cantle,2005:188)。これには社会全体の「真実」(truth)と「寛大さ」(forgiveness)の追求が基本原則になる注8)。
ただし、社会システムにおける相違、分離、住み分け、差別への恐怖の解消は簡単ではない。なぜなら、一人暮らし高齢者支援でも、子どもを育てている「仕事あり」母親と「仕事なし」母親間での「平等問題」でも、経済的支援を含めて、住宅の提供、仕事への公平なアクセス、行政サービスの確保、学校教育の機会均等を保障するところからしか解決の見通しが得られないからである。
解決方法この「平等」や「公平」の観点からの実質的な解決方法についての議論は、学術的にも政策論的にも依然として不十分な段階にある。
一般論としては、新しい個人主義に沿う「連帯性」の存在が必要であり、そのためには寛容と相互信頼こそが、異なった背景の人びと間にある理解と伝統を促進する結びつきを創造できるという指摘はすでにある。しかし高齢者間や社会的弱者間、それに外国人と日本人との間にあるはずの「連帯性」創出の方法が実行性を持ち得ていない。
長年にわたる内外のコミュニティ研究には膨大な蓄積があるので、「コミュニティの凝集性は寛容性を増進し、異なった集団を受容し、平等と統合を促進する」(ibid.;209)を活かした理論化を進めるための補助線を次に示しておこう。
「相違の恐怖」の緩和まずは日常生活での「相違の恐怖」を緩和する方法を、具体的な事例によって解明することである。
「相違の恐怖」は個人、家族、地域社会のどのレベルでも起きるから、周囲の支援を受け、地域社会全体の理解と寛容を促進して、相違を前提とした受け入れ活動を強化するために、血縁、地縁、住縁、職縁、関心縁などを通した接触が求められる注9)。
場面に応じた接触このきっかけは、互いに分離する領域、たとえば教育、雇用、信仰、文化、レジャーなどでも構わない。あるいは『ミドルタウン』のように、生活費獲得、家庭生活、青少年育成、余暇時間活動、宗教活動、地域活動などでも十分である(リンド夫妻,1929=1990)。
地域における場面としての共存は、街中、近隣、小中学校、高等学習施設、病院、スポーツクラブ、企業、商店、スーパー、コンビニ、地区センター、コミュニティ集団、宗教集団などで行われる。
接触頻度が重要それらの分野での接触の頻度が、段階的なコミュニティの凝集性を用意する。コミュニティの凝集性の基本は、「一人暮らし」でも「仕事」の有無に関わらずに、それぞれを孤立させないようにすることにある。
まずは、世帯、性、世代、階層、居住地域、健康の相違を超えて、縁ごとの頻繁な対話と相互作用がその入口にくる。たとえ「相違の恐怖」があっても、真摯な対話は共同価値を発展させるという性善説がそこにある。
架け橋の対象そうすると、解決のための架け橋は、「自分たちのような人々」(people like us)と「自分たちと違う人々」(people not like us)とに対象を大別するところにある(Cantle,op.cit.:186)。
どちらを重視しても、コミュニティ凝集性には相互作用から醸し出される帰属感が芽生え、その先には「社会関係資本」への途が開かれている。
地域社会で暮らす人々が、階層や世代や宗教などの文化的な境界を越えて、積極的な相互作用の結果として、意味のある社会関係と相互扶助をどのように創造できるか。
国際化と高齢化が同時進行する日本社会でも、境界を超えないままの「相違の恐怖」と、それを超えたら発生する「相違の恐怖」とが共存する段階に入っている。このような認識の上で、「骨太の方針」でも政策としての「孤独・孤立対策」を進めてほしい。
共通の展望と帰属感を育む両方の「相違の恐怖」を緩和するには、分割された属性をもつ多くの主体間にいくらかでも共通の展望と帰属感を育むことにつきる。それには「国民生活調査」に現れたように、「多様性」と「共通性」の両面を活かしたうえで、
社会成員の背景が、世代と階層と健康面でも多様であることを理解する 異なった主体間に、共通の制度や類似の生活機会を創造する 強い相違の間に、横断的な接触と関係づくりの機会を発展させる
ような政策展開が望まれることになる。
特定目標は何か展望を阻害する要因としては、依然として異なる生活信条、世代差、階層差、信仰、文化などの違いがある。もちろん展望そのものは「短命な概念ではない」(ibid.:170)。キャントルが提起した’Overarching goals’はほぼ’common aims’なのだから、多様性のもつ積極的将来像を促進して、偏見と不寛容に取り組む努力を開始するしかない。
『骨太の方針』の’Overarching goals’は「新しい資本主義」になるが、私はこれを「社会資本主義」と命名した。これまでのような「新しい資本主義と新しい社会主義の共生」「ポスト資本主義」「脱成長」などよりも、少なくとも一歩前進させた地点での議論がほしい。それだけ「目標」が絞り込めるからである。
全国民の「生活安定と未来展望」のためにも、年末の「財源論」までに各方面からの’common aims’提唱が待たれるところである。
■
注1)この表現はラワース(2017=2021:402)からの引用である。ラワースはイギリス式の ‘Industrialised’を使ったが、ここではアメリカ式の‘Industrialized’で表現した。
注2)「普遍的な社会的溶剤」はリーヴィが使用した概念である。富永はこれを日本の近代化論に応用したことになる。
注3)5種類の調査票の内容と細かな集計方法については厚生労働省ホームページ(7月4日)に詳しい。
注4)このデータを基にして消費動向を探ると、「個人消費」以上に「世帯消費」が堅実に伸びることを論じたことがある(金子、2022)。
注5)「粉末化」は「さらさらパラパラの人間関係状態に陥った個人を表現」(金子、2016:7)する用語として造語した。これは現代人の「没社会性」(asocial)を意味していて、比喩的に言えば「硬い殻を帯び、社会システムの境界から遮断を行っている」人間像を表現するものである。
注6)私の「社会資本主義」では「社会関係資本」の充実を軸としたコミュニティレベルの関わり合いを重視した。
注7)「3.少子化対策・こども政策の抜本強化」については『社会資本主義』(2023)で取り上げたので、参照してほしい。
注8)多様な生き方を主唱しながら、寛容性に欠ける政策はいつの時代でも見出される。
注9)高田と異なり、私はこれら5縁に分類してきた(金子、1993:42)。
【参照文献】
Cantle,T.,2005,Community Cohesion, Palgrave.
Hickel,J.,2020, Less is More. Cornerstone.(=2023 野中香方子訳『資本主義の次に来る世界』東洋経済新報社.
加藤周一,1974,『雑種文化』講談社.
金子勇,1993,『都市高齢社会と地域福祉』ミネルヴァ書房.
金子勇,2016,『日本の子育て共同参画社会』ミネルヴァ書房.
金子勇,2022,「人口減少社会の『消費』問題」アゴラ言論プラットフォーム 9月28日).
金子勇,2023,『社会資本主義』ミネルヴァ書房.
Levy,M.,1972,Modernization:Latecomers and Survivors, Basic Books.
Lynd,R.S.& Lynd,H.M.,1929,1937,Middletown: a Study in Contemporary American Culture. Middletown in Transition : a Study in Cultural Conflicts. Harcourt, Brace& World,Inc. (=1990, 中村八朗訳『ミドルタウン』青木書店).
Raworth ,K.,2017,Doughnut Economics : Seven Ways to Think Like a 21st Century Economist , Chelsea Green Pub Co.(=2021 黒輪篤嗣訳『ドーナツ経済』河出書房新社).
高田保馬,1949=1971=2003,『社会学概論』ミネルヴァ書房.
富永健一,1996,『近代化の理論』講談社.
宇沢弘文,2010,「社会的共通資本としての医療を考える」宇沢弘文・鴨下重彦編『社会的共通資本としての医療』東京大学出版会:17-36.
Weber,M.,1904-05,Die protestantische Ethik und der >>Geist< 提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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