そして起訴状の包括期間を、

① 28年から満州占領まで ② 31年から36年まで ③ 36年から39年の欧州戦争勃発まで ④ 日本降伏まで

の4期間に分けて、日本の対ソ侵略行動を縷述した。花田報告書は、この期間の日ソ両国の政策や両国間の出来事を次のように詳しく述べている。

18年8月:<日>シベリア出兵及び北樺太での保障占領 22年10月:<日>シベリアから撤兵 25年1月20日:<日ソ>日ソ基本条約(北京条約)締結、国交樹立、ポーツマス条約の有効性再確認、漁業・天然資源での諸合意 29年10月:<ソ>中東鉄道をめぐる張学良軍との奉ソ戦争(特別極東軍を編成) 31年9月18日:<日>満洲事変 32年2月16日:<日>満洲国建国 32年4月:<ソ>極東海軍設立 (35年1月太平洋艦隊に改編) 33年:<ソ>第2次5カ年計画⇒特別赤旗極東軍の大幅な兵力増員・技術装備強化・大規模軍事建設 35年5月17日:<ソ>極東軍管区設立。基幹部隊は特別赤旗極東軍 35年5月17日:<ソ>ザバイカル軍管区設立(諸部隊がノモンハン事件に参戦) 36年3月12日:<ソ>ソ蒙相互援助議定書締結 36年4月:<ソ>モンゴル領内へのソ連軍駐留開始 36年11月25日:<日>日独防共協定締結 36年12月:<ソ>西安事件⇒中国国内の国共合作により抗日強化。日中戦争前にソ連の極東戦略として中ソ関係の安定化が具体化 36年末のイルクーツク以東のソ連軍兵力: 29万人以上(32個師団)でソ連軍全体の4分の1以上。兵器:戦車3,200両、大砲3,700門、重爆撃機300機、軽爆撃機345機に増強され、 関東軍を物量で圧倒。満ソ国境防衛のため、国境地帯に多数の小型要塞トーチカ(陣地)の建設が進められる。 37年3月8日:<ソ>「ソ連共産党中央委員会政治局の中国問題に対する決議」⇒集団安全保障に関して以下を採択。

中ソ不可侵条約に関する交渉再開 太平洋地域協定の締結問題で中国国民政府(南京政府)が主導権を示すならばソ連の支援を約束 国民政府に対し2年以内に5,000万メキシコ・ドルのクレジットを6年間供与し、航空機、戦車、軍需品の売却に同意。錫、タングステン、茶の受領で支払いを補填。 ソ連領内で中国人パイロット及び戦車兵を養成することに同意 蔣介石の息子(蔣経国)の同意に基づき中国「訪問」に承認

37年8月21日:<ソ>中ソ不可侵条約の締結 38年7月1日:<ソ>極東方面軍編成 38年7月29日~8月11日:張鼓峰(ハサン湖)事件 39年5月11日~9月16日:ノモンハン事件(ハルハ河戦争) 39年8月23日:<ソ>独ソ不可侵条約締結、 40年9月27日:<日>日独伊三国同盟 41年4月13日:<日ソ>日ソ中立条約締結

30年代は日ソ間・満ソ間での満蒙権益確保をめぐる係争は間断なく続けられ、防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍〈1〉』によると満ソ国境紛争は次のようだ。

32年〜34年:152回 35年:176回(ハルハ廟事件など) 36年:152回(長嶺子事件など) 37年:113回(乾岔子島事件など) 38年:166回(張鼓峰事件など) 39年:159回(ノモンハン事件など)

家永は、「45年8月までソ連=ロシアによる日本国内侵略は行われていない」と地域を「日本国内」に限定してゴマ化す。が、満蒙に目を転じれば、30年代のソ連による極東地域での軍事増強振りは上記のように眼を見張るばかりであって、日ソ・満ソ間での係争も2〜3日に一度の頻度で発生していた。

家永が「西村回想録が虚言でない限り、否定の余地がなかろう」とし、「日本軍が行った威力偵察」と例示している諸事件について、『ノモンハン事件の真相と戦果』は次のように述べている。