若い頃からほとんどのフェラーリを手掛けた逸材

その時のセルジオ・ピニンファリーナはまだデザイン学校を出たばかりの若者でしたが、バッティスタからフェラーリの全てを任せられ、デザイン以外にもミッドシップの量産ロードゴーイング・スポーツを開発するよう提案したのも、セルジオだと言われています。
1960年代まではピニンファリーナのライバル、あるいはよきパートナーだったカロッツェリア・スカリエッティが1973年にフェラーリへ買収されて以降、2010年代に社内デザインを採用するまで、ほとんどのフェラーリはピニンファリーナのデザインです。
ディーノ208/308GT4など、ベルトーネのデザインもあるにはありますが、スカリエッティやピニンファリーナ以外でデザインされたフェラーリは「らしくない」という評価が多く、セルジオ・ピニンファリーナがいなければフェラーリの歴史はだいぶ異なったでしょう。
日本車ではあまり名前が出ないが…

ピニンファリーナと日本の自動車メーカーの関係はそんなに濃いものではなく、プリンスなど1960年代にデザイナーの研修を断られたり、日産も410ブルーバードや130セドリックのデザインが不評でビッグマイナーチェンジを余儀なくされたり、よいところがありません。
ただし、ホンダが初代シティカブリオレの幌周りや、その後もコンセプトカーのデザインを依頼したり、三菱がパジェロイオの現地生産を依頼した結果、パジェロピニン、ショーグンピニンの名で販売されたりと、無縁というわけでもないようです。
過去のブルーバードやセドリックの評価から、あらぬ風評を立てられては?と表沙汰にしていない可能性もあり、「実はあのクルマが…」と、意外なところでピニンファリーナが関与している可能性はあるでしょう。
なお、日本人ではケン・オクヤマ(奥山 清行)氏がかつてピニンファリーナへ在籍、「エンツォフェラーリ」などのデザインを担当しています。