偉大なる先人、セルジオ・ピニンファリーナを称えて

同じイタリアのカロッツェリア(デザイン工房)でも今ひとつ相性が良くないのか、ジウジアーロが率いたイタルデザインなどと違って日本車とは縁が薄い「ピニンファリーナ」ですが、歴代フェラーリをはじめイタリア車やフランス車で関わったクルマは多数。
日本人でもラテン系のクルマが好みの人にはウケていますが、中興の祖であるセルジオ・ピニンファリーナが2012年にこの世を去った後、その業績を称えて翌2013年に発表された美しいコンセプトカーが、ピニンファリーナ セルジオです。
後にフェラーリ セルジオとして限定6台で販売されましたが、フロントのウインドシールドがなく、ドアが極端に小さいコンセプトカー版にこそ、ピニンファリーナ・デザインの真髄が見えるかもしれません。
フェラーリに多大な貢献をした「2人のセルジオ」の1人

日本でも有名すぎるほど有名で、逆にありふれすぎてはいないかと心配になるスーパーカーブランド、「フェラーリ」。
その多く、特に1950年代以降のモデルがイタリアのデザイン工房、「ピニンファリーナ」のデザインによるものだと知ってはいても、セルジオ・ピニンファリーナの名まで把握している人は案外少ないのではないでしょうか?
まだスクーデリア・フェラーリが、アルファロメオのレース活動におけるセミワークスチームだった頃から深い関係を持っていたセルジオ・スカリエッティとともに、戦後に自動車メーカーとして立ち上がったフェラーリの草創期を支えた「2人のセルジオ」の1人。
まだモデナにあった頃のフェラーリに入り浸っていたスカリエッティとは異なり、ピニンファリーナは戦後になってからの関係ですが、1951年にバッティスタ・“ピニン”・ファリーナ(※)とエンツォ・フェラーリの初会談をセッティングしたのが若き日のセルジオです。
(※「ピニン」とはイタリアのピエモンテ語で「小さい子供」を意味し、バッティスタの愛称だったが、1930年に工房を立ち上げてからの業績によって、1961年に当時のグロンキ大統領から許可を得て「ピニンファリーナ」へと改姓した)