では、問題の本質は何なのか?

さて、教育の問題は「価値観バトル」に発展しやすいとしても、問題の本質がどこにあるのかが気になります。TVで取り上げられた議論だけでなく、ネット上でもメディアや評論家らが次々とこの問題についての議論を展開されました。

私が閲覧しただけでも、「(少年が)大人に利用されている!」、逆に「大人が(少年に)利用されている!」といった真逆の論点、さらに「問題の本質は不登校宣言を通して学校と真面目に通う生徒らを卑下したかに見えたこと」という議論もありました。

また、憲法や法律を引き合いに出す議論や、教育の責任論に注目した議論もありました。まさに議論百出と言えるようですが、多くの議論が事の本質の一端を捉えているかのように思われます。本質はそれぞれの価値観の中で見つけるものなのかもしれませんね。

ただ、ガマンして、がんばって学校に行く生徒さんや子ども、それを支える親御さんらのお気持ちを代弁したかのようなコメントは少なくとも私には説得力がありました。多くの方が時に葛藤を抱えながら学校における教育と向き合っている現状を考えると、このご意見は多くの方に納得を与えたのではないかと思います。

ですが、一つだけ、少なくとも私が拝見した限りではあまり見いだせなかった論点がありました。それは、職業キャリアの論点です。少年の将来を思い遣る論点の中に近いものが見いだせましたが、次で詳述したいと思います。

職業キャリアの視点からは何が見えるのだろうか?

少年はYouTuberを名乗り、父も少年がこの「職業」で稼いでいることを誇りにしているように報じられています。私はこれも一つの価値観かと思います。

同じく現代の職業観の一つですが、職業に貴賎はありません(現実問題として格差はありますが)。どの仕事も誰かの役に立ち、誰かを幸せにしているからそこにお金が付いています。お金がつくことで仕事は持続可能な活動となり、職業を通してお互いに幸せにし合う社会の実現へと繋がります。格差の問題は自尊心の問題を刺激するのでそちらが注目されることも多いのですが、実はどんな仕事も誰かを幸せにするという「価値の創造」が伴うから仕事になっているのです。

この度は発信力のある「少年」の刺激的な宣言が改めて教育への関心を呼び、議論を活性化し、論争というドラマを提供しました。これが誰かの幸せに結びつくかはこの先の私たちの受け取り方次第ですが、少なくとも議論を呼ぶという「価値の創造」になっていたと言えるでしょう。この観点では、少年の試みは職業として成立していたと言えます。

問題があるとしたら、持続可能性という点でしょうか。「中学校に籍がある当事者」そして「少年」という立場で発信したので注目されましたが、この立場は時間的な限りがあります。特に少年の立場については能の世阿弥の名著『風姿花伝』でも古くから示唆されていますが、同じことをするのでれば大人が行うより子どもが行うほうが注目されます。逆に言えば、大人になると子ども時代と同じやり方では価値を生み出し難くなるのです。この件が持続性なく、一時的に消費される何かになってしまうと、私は少し残念な気持ちになります。