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「天才」アイルトン・セナの覚醒を促すマクラーレンへの移籍
またも続く「ブラバム」との縁、マクラーレンMP4/4
「天才」アイルトン・セナの覚醒を促すマクラーレンへの移籍

マクラーレンの1987年ドライバー陣は「教授(プロフェッサー)」の異名をとる名手アラン・プロストと、ステファン・ヨハンソンでしたが、ホンダの意向もあって「天才」アイルトン・セナがロータスから移籍します。
ワリを食ったヨハンソンについては読者諸兄も覚えておられるかどうか、1983年には第2期ホンダF1初の参戦となったスピリット ホンダ 201Cを駆ってホンダへ貴重な経験をもたらした人物でしたが、当のホンダによって2度もF1のシートを失う憂き目を見ました(※)。
(※セナの後釜はウィリアムズからネルソン・ピケが移籍、その後釜はリカルド・パトレーゼで行き場のないヨハンソンは翌年からリジェでF1参戦を継続しつつ、ヨコハマタイヤやTaka-Qのスポンサードを得て日本との縁が続き、トヨタのCカーにも乗っています)
勝利のために非情の決断を下したホンダですが、確かにセナにはそれだけの価値がありました。
開幕戦ブラジルGPではマシン不調でスタート前にTカーへ乗り換え失格という珍事を起こし、完走すれば淡々と1位か2位のプロストに比べ表彰台の回数も少なく、マクラーレン同士の直接対決ではプロストからのプッシュに弱いと、まだ粗削りの若さが目立ったセナ。
しかし最終的にはプロスト(7回)を上回る優勝8回でドライバーズタイトルを獲得し、見事にホンダの期待へ応えてその後のマクラーレン ホンダ、そして自身の伝説においても黄金時代の始まりとなったのです。
またも続く「ブラバム」との縁、マクラーレンMP4/4

ホンダエンジンの新たなカスタマーとなり、1.5リッターターボ時代のF1最強となる名機、RA168Eを得たマクラーレンもまた、大きな転機にありました。
この年から、後にマクラーレンのロードカー部門で「マクラーレンF1」を設計した事でも知られる名人、ゴードン・マーレイが移籍しますが、その移籍元が1960年代からホンダF1との関わりでたびたび名が出る「ブラバム」。
この頃のブラバムF1チームは既にジャック・ブラバムの手を離れていたとはいえ、そこでマーレイが開発したF1マシンのうち、末期のBT55をさらに熟成したようなマシンが、マクラーレン移籍後初となる「マクラーレンMP4/4」。
その特徴をザックリ言うと、「ドライバーを後ろに大きく寝かせてでもマシンの全高を下げ、フラットな気流でリアウィングに最大限の仕事をさせ、さらにギアボックスにもディフューザー効果を発揮するなど、空力にとことんこだわったマシン」。
ブラバムBT55ではBMWエンジンとのマッチングをうまくこなせず不振でしたが、ホンダエンジンを得たマクラーレンMP4/4ではこれがバッチリとハマります。
さらに、F1の規則変更でドライバー位置を後退させねばならなかった時、同じく規則変更で燃料タンクの容量を減らした分だけスッポリと収まり、重量バランスもバッチリ!
ここまでお膳立てが整うと、何か妙な新機軸でも採用してトラブル多発しない限り、勝てなきゃおかしいというくらい万全の常態です。