AI恐怖はまったくの杞憂か?

それでは、大げさな恐怖宣伝には何ひとつ根拠はないのでしょうか。すでに寡占化しつつあるAI業界大手の意図とはまったく違うところで、私は生成AIの普及には歓迎できないところがあると思っています。

それは、生成AIによって文章、画像、映像、音声などのさまざまな表現手段を使う人が増えると、多種多様であるべき表現が画一化し、平準化してしまう危険があることです。

先ほど「現在出回っている主なLUIシステムの特徴」を引用させていただいた『One Usesful Thing』というウェブサイトの主宰者であるイーサン・モリックはなかなかのアイデアマンで、「もし古今東西の偉人がスニーカーを履いていたら」というシリーズを画像生成AI、Midjourneyを使って作成し、Tweetで公開しています。

次の「ゴッホのひまわりにインスパイアされたスニーカー」は、中でも本人も愛着を持っている傑作だと思います。

単なる模写や模倣にとどまらず、あの大胆な色遣いをみごとにスニーカーというまったく別の表現手段に生かしています。

でも、次の一組はどうでしょうか?

シュールレアリズムの巨匠、ダリのほうは文句なく傑作だと思います。

自分はなんの変哲もない白に近い灰色のスニーカーを履きながら、スーツと完璧に色をコーディネートしたスニーカーを、どうやっても人間の足がこう交差することはないという角度に左右逆に置いています。

いかにもダリならこういうやや過剰な演出をしそうだという気がします。

それに引き換え、ピカソは完全な失敗作でしょう。長い生涯を通じて何度も画風を変えてきましたが、見るからに抽象画ふうな色とパターンの組み合わせ自体を楽しむことは一度もなかった人です。

どんな画風のときでも、繊細なときにはあまりにも繊細に、狂暴なときにはあまりにも狂暴に、そして豊満なときにはあまりにも豊満に、見るものの胸ぐらをつかみ、首根っこを押さえて「見ろ、見ろ。これがオレの言いたいことだ」と叫び続けた人だと思います。

(そんな人がこの世にいるとして)もしピカソの絵を1枚も見たことのない人が見たら「ピカソって、バスキアをおとなしくしたみたいな画風だね」と思うかもしれません。ピカソは墓の中ではらわたが煮えくり返るほど怒るでしょうが。

結局、モリックはピカソのことを「抽象画の大家」と認識していて、画像生成AIにもそう教えこんだのでしょう。そして、AIは膨大なピカソの絵のストックの中から、どこかでこういう「いかにも抽象画ふうな」色とパターンの組み合わせを引っ張り出してきたわけです。

モリックはシュールレアリズムとは意識を共有できるけれども、ピカソのような描くもの自体はあくまでも具体的な抽象画家とは意識を共有できない人なのだと思います。

AIは使い手の知的能力を超えることができないのと同様に、成果物が美を追求するものの場合も、AIは使い手が共感できない美を表現することはできません。

もちろんまだこの世に存在したことのない美を創出することもできませんが、どこかにオリジナルを求めた上で、見立てや、もどきや、判じものといった江戸の文人が好んだようなひねりを利かすことはできます。

そして、生成AIを使った見立てやもどきや判じものが溢れるように「生産」されるにつれて、見るものの感受性もオリジナルはほとんどなく派生的な作品ばかりの世界に慣らされていくのではないでしょうか。

美意識の画一化、平準化がどの程度の被害をもたらすかは、おそらく永遠に金銭に換算することのできない性質の損失でしょう。ですが、その損失が無視できるほど軽いものだとは思えません。

思想や世界観も、使い手の偏狭さを超えられない

生成AIに大量の歴史的データを投入すれば、非常に視野も広く、スパンの長い雄大な歴史叙述が可能だろうという気がします。私の見るところでは、そういう雄大なスケールの歴史哲学を構築しようとしている有力候補にルーク・ミュエルハウザーがいます。

たとえば彼は、次のグラフでご覧いただけるように「計量可能」な6つの指標を使ったマクロヒストリーへの模索をしています。

しかし、この人口に関する大事件を見ると、いいことはすべて西欧と北米で起き、悪いことはすべてそれ以外の地域で起きていることになっています。

15世紀末から19世紀までヨーロッパ諸国とアメリカが、どれだけ大勢の南北アメリカ大陸、オセアニアの先住民を殺し、どれだけ大勢の黒人を奴隷としてアフリカ大陸からアメリカ大陸やカリブ海諸国に送りこんだかは全く無視されています。

非常に断片的に「なぜか、古典古代ギリシャ・ローマや、大航海時代から西部開拓時代のアメリカのように、文明の発展する時期は奴隷制の普及した時期と一致する」という記述はありますが。

そして、さまざまなカーブがいっせいに急上昇して判別しにくくなる1850年以降を切り取った次のグラフを見ると、急カーブの中でもとくに急峻なのが戦争遂行能力だとわかります。

たかだか200年で200倍近くまで増加しているのですから、他の指標とは次元の違う伸び方です。

私は、初め長い停滞期を経てようやくここまで増えた人口が歴史的な時間軸で見れば一瞬で消え失せるかもしれないという警鐘として、戦争遂行能力を取り上げているのかと思いました。

ところが、戦争遂行能力はテクノロジー進歩の代理変数として採用しているとのことです。「どれだけ人類が快適に過ごせるようになったかといった基準は、どう頑張っても計量化できない。しかし、どれだけ大勢の人間を殺せるかはきちんと計量化できる」という理由で。

こういう発想の人ですから次の2段組のグラフを比較した上で、唖然とするような感想を述べています。

「結局、紀元1750年ぐらいまではまったくムダで、あってもなくてもいいような時間だった。断片的な文章記述を読むと、どんな時代にもそれなりに楽しいこと、おもしろいこともあったようだが、経済的には底辺をはいつくばってうろついていただけだ」

まあ、こういう人だからこそエネルギーについても、いかに地球の中から、あるいは野生・栽培を問わず植物からエネルギーを奪い取るかを文明の指標とするだけで、いかに限られたエネルギー資源を有効に使うかという文明もあることを想像できないのでしょう。

欧米エリートが感ずる数の力に対する恐怖

欧米エリートたちの「地球人類をリードするのは永遠に我々だ」という固定観念から見ると、次のようなグラフも恐怖に満ちたものとなります。

いわゆる発展途上国では極貧生活に苦しむ人の数は減り、新興国などでも着実に先進国での貧困線である1日当たり30ドルを超える生活費を遣える人たちが増えています。

それなのに先進国での貧困線を上回る人の比率があまり伸びてないのは、アメリカで「中流の消滅」という事態が起きていて、ヨーロッパ諸国もほぼいっせいにたそがれどきを迎えているからです。

でも、欧米エリートは「いつまでも低所得でいるべきアジア・アフリカ・中南米の一般大衆の所得が上がるから、自国の一般大衆にわけてやれる富が減り、欧米で貧困線を超える人の数はこんなに少ない」と考えるのです。

経済活動をプラスサムではなく、ゼロサム、つまり誰かが得をすれば、その分誰かほかの人が損をしなければならないゲームと考えているかぎり、アジア・アフリカ・中南米の人口増加は、欧米知的エリートの恐怖の的です。

「すでに現状でこんなに小さな地域に世界人口の半分以上が密集して住んでいて、今も全体としては人口が増えつづけている。しかも身の程知らずにも、我々欧米人と同じ生活水準に到達しようなどと考えている。そうなったら、我々だって贅沢三昧はできなくなる」

彼らが考える「最終解決」はAIを頭脳として、ロボットを手足にして使役して、自分たちは遊んで暮らす世の中であり、家事はすべて人権問題の発生しない家事万能ロボットに任せることでしょう。

さすがに6~7世代前は盛大に奴隷を使役する文明圏として栄えていた国だけあって、AIに期待することのトップが家事雑用となっています。退屈でわずらわしい家事雑用は全部家内奴隷に押し付ける生活がどんなに快適なものか、民族的記憶でもあるのでしょうか。

AIが種を蒔き、ロボットが耕す経済が実現できれば、人権問題があるので今さら奴隷として使役することはできないアジア・アフリカ・中南米の諸民族にはきれいさっぱり消えていただくことになるのでしょう。

さいわい、狭い室内で行きかう人のあいだを縫って動き回り、数百種類の手仕事を無難にこなすのは、高度な知性と身体能力を必要とします。人間ほど小型で軽量なロボットがこんな芸当をできるようになるまでには、数百年を要するはずです。

欧米知的エリートがAIとロボットの組み合わせに見る夢の底流には、頑迷な欧米中心史観があります。この人たちが使い手となって育てるAIにもまた、欧米以外の諸国民に対する偏狭な差別意識が植えつけられるでしょう。

そういう意味で、やはりAIは恐怖の対象であり続けるのかもしれません。

AI関連ウェブサイト案内

まず大げさな恐怖宣伝と、寡占資本の既得権益擁護論の典型が『The Rundown』です。

次に、比較的穏健で中庸を得た議論をするけど、時おりAIオタクの顔がのぞくのが『One Useful Thing』です。

私としては、もっともラジカル(根源的であり過激)でおもしろく読めるのが『Authentic Intelligence』です。

最後に似ても焼いても食えない欧米エリート主義の見本が『Luke Muehlhauser.com』です。

賞賛、恐怖、懐疑、それとも無関心?AIをどう見るか 前篇 学費ローン延滞大量発生でアメリカは金融危機から体制崩壊の危機へ アメリカの銀行業界は、市場経済と統制経済の主戦場だった 後編 アメリカの銀行業界は、市場経済と統制経済の主戦場だった 前編 第二次世界大戦とともにアメリカの市場経済は終わっていた 後編

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編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2023年6月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。