シリーズタイトルすら決して届かない夢ではなかったはずだが

これなら、ロータスのみならずマトラやマクラーレンなどに拡大したコスワースDFV勢にも十分戦える、うまくすればシリーズタイトルすら…と夢を膨らませても不思議ではありません。
しかし、スペインGPでは74周目、モナコGPでは16周目にギアボックストラブルで、ベグイーGPでは11周目にサスペンショントラブルで、オランダGPではなんとオルタネーターのローターが脱落と、トラブル続きで完走すらできず、信頼性に疑問が持たれます。
そうこうしているうちに日本本国のホンダ本社が、「独自のマシンを作って送るからそれを後継にしろ」と言ってきて、なんとも妙な雲行きになってしまいました。
本田宗一郎の暴走?!RA302によるオールホンダ再び

実は1968年シーズンのホンダF1は、プロジェクト当初から深く関わる中村 良夫氏が率い、ジョン・サーティースとともにローラがあるイギリスに腰を据えたヨーロッパ現地部隊と、カリスマ創業者の本田 宗一郎が陣頭指揮をとる日本本国部隊に分断されていました。
ローラ・ホンダ体制のヨーロッパ部隊が進めていた水冷V12エンジンの「RA301」が本命と思いきや、ホンダ本社で本田 宗一郎が作らせていたのは、自然空冷V8エンジンをホンダ独自シャシーに載せた「RA302」。
それだけならRA273から急造のRA300へシーズン途中で切り替えた1967年の前例もあって、RA302の方が軽量(最低重量ピッタリの500kg)で左右分割可能可能なミッドウイング採用など空力面でも新しく、サーティースのテスト走行でも素性は悪くありません。
ただし当時の本田 宗一郎は2輪や軽4輪のN360で自然空冷に自信を深め、「水冷だってどうせラジエーターに風当てて冷やすんだから、空冷の方が効率的だ!」と言い放ち、空冷エンジンの限界を知る技術者はウンザリしていた頃です。
果たしてRA302のエンジン開発はサジを投げた担当者(※)が出社拒否するほど難航しましたが、それであきらめる宗一郎ではなく、最終的には現地へ丸投げする形でヨーロッパへ送ってしまいます。
(※後にホンダの社長も勤めた久米 是志氏)
中村 良夫氏率いる現地部隊は未完成ならまだしも、完成する見込みない、グランプリへの出走などトンデモないRA302を前に唖然として本戦を走らせない意向でしたが、7月のフランスGPでなぜかジョー・シュレッサーのドライブでRA302がエントリーされてまた唖然!
激怒した中村氏は、一緒に日本から派遣されてきたエンジニアと、ホンダフランスにRA302を任せ、ヨーロッパ現地部隊はサーティースが駆るRA301に専念しますが、シュレッサーに「オーバーヒート確実だから飛ばすな」とアドバイスは忘れませんでした。