今回の渡米に際し、懐かしの旧宅を訪れたり、学び舎の教室の椅子に身を沈めたりしながら、そもそも何故、どちらかというと英語を苦手科目としていた私がハーバードに留学できたのか、などと想像していると、母や中高時代の教師や大学での友人から職場での先輩方など、自分のアイデンティティ形成を巡る様々なアクターの方々への感謝しか出てこない。

思えば、昨年の母の死から、一人で、その死に向き合う時間は殆どなかった。飛行機の機内で、或いは、ホテルの一室で、様々なことを想像しながら思いっきり泣けたのも良い時間であった。

5年前は、大変お世話になっていた故エズラ・ボーゲル名誉教授がまだご健在で、私のためにわざわざファカルティ・クラブで、ランチ会を開いてくださり、ライシャワーセンターやウェザーヘッドセンターの日米紐帯の鍵となる先生方をご紹介くださったりしたことを考えると、涙が頬を伝ってくる。

その時のご縁も元となって、今回、新たな日米紐帯の鍵となる人たち何人もと意見交換が出来た。ボーゲル先生はおそらく、自らの死後の世界、特に日本の退潮や日米関係の未来も想像して、私を様々に結び付けてくれたのだと思う。先生と共に、今も続くボストンでのボーゲル塾(ハーバード松下村塾)を立ち上げ、日米の文化・社会の違いなどを議論したことを懐かしく思い出す。

留学当時の20年前は、まだサミュエル・ハンティントン教授が健在で、ハーバード・ヤードの方で教授のゼミが開かれていた。その数年前に『文明の衝突』が上梓されたばかりであったが、同著の出版から四半世紀がたった世の中を眺めると、まさにイデオロギーではなく、民族性に紐づいた価値観の対立が顕著である。ハンティントン氏の想像力の通りと言っていいかも知れない。

そのハンティントン氏の著書から遡ること数年、1992年に出版されたのが、フランシス・フクヤマ教授の『歴史の終わり』であった。西欧の民主主義・自由主義は、様々な抑圧との戦いを制し(vs専制君主制、vs日独などの全体主義、vs社会主義・共産主義)、弁証法的に見て最終的な勝利を収め、これからは民主主義や自由主義という価値観が世界を覆うと見たやはり想像力が駆使された衝撃の書であった。それから30年、フクヤマ氏は2022年に『リベラリズムへの不満』という著作を出している。

リベラリズムと民主主義は厳密には異なる原則と制度に基づいているという理解の下、民主主義下で、トランプ氏をはじめ、様々な権威主義的リーダーが生み出され、同時に左派のアイデンティティ政治からも攻撃され、リベラリズムは危機に瀕していると説く。

さまざまなアクターの権利を守り、フクヤマ氏の喝破するところでは「法の支配」を原点とするリベラリズムは、私に言わせれば、想像力の産物である。たとえ、少数であっても、時に個人であっても、その人たちの自由を保障するという考え方の基礎には、他者のおかれた環境への人間の想像力がある。

次代を作る力の基礎に想像力がある。今週土曜日からの主宰する青山社中リーダー塾の開講を前に、改めてそんなことを感じたアメリカへの旅であった。