ベルマーレとの出会い

ーそんな中、なぜベルマーレに惚れ込んだのでしょう?

遠藤氏:実を言うとJリーグのクラブであればどこでも良かったんです(笑)。全クラブに履歴書を送り、連絡もしました。「今から(日本の)北から順に俺の知っている人の名前と所属チームを言うから、メモして。電話番号は自分で調べてね。僕の名前を出してもいいから」と、高島さんが仰って下さって。このなかで実際に会って下さったのが3クラブほどで、そのうちのひとつがベルマーレ平塚であり上田栄治さんでした。

ただ、上田さんからは「人は足りているから、(現状ベルマーレへの入社は)無理だよ」とはっきり言われて。でも、ベルマーレの施設を見せて下さったり、グラウンドを案内して下さったりと、「少しでも何かを経験させてあげよう」と思ってくださったのかもしれません。上田さんのこうした優しさに甘えて、私はしつこく連絡しましたね(笑)。お会いできたクラブが他にもあったのですが、もちろん(入社は)断られて。なんとしてもベルマーレで働きたいと思ったのは、上田さんにお会いしてからですね。

ーそして短大をご卒業される1996年の2月に、確か上田さんから「ポルトガル語できる?」というお電話があったんでしたよね。外国籍選手やその家族のお世話をするスタッフが、ベルマーレに必要になったと。

遠藤氏:そうです。お電話を頂いたとき、(ポルトガル語を喋れますと)嘘をついてはいけないと思ったのは、すごく覚えています。でも「喋れません」と答えたらこの話(入社の話)は終わっちゃうなと。なので「絶対喋れるようになります」と答えました。上田さん、笑っていましたね。でも、私のこの答えで上田さんも「逆にこっちも断れないな」という気持ちになったのかも(笑)。

96年にベルマーレがブラジル人監督(トニーニョ・モウラ氏)を招聘したんです。外国籍のコーチや選手が増えて、急に7家族くらい来日することになって。これは通訳一人では手に負えないよね、誰かいないかという話になって、多分私のことを思い出して下さったんだと。

ーポルトガル語はどのようにお勉強されたのですか?

遠藤氏:辞書を片手に(来日された)選手やスタッフの家族と喋りながらその都度覚えましたね。上田さんからは、「彼らは日本に来て何もわからなくて、きっと寂しい思いをしているだろう。言葉がわからなくても、彼らに会いに行って何か話してあげてね」と。入社してすぐに(語学)学校に通い始めたのですが、すぐに忙しくなって通う時間がなくなってしまいました。単語の羅列であっても、家族と喋ったほうが覚えられるという感じでしたね。

呂比須ワグナー(1997-1998、ベルマーレ所属)写真:Getty Images