宮古島の歴史も絡む複雑な背景とは
今回の騒動は、宮古島という土地柄が絡んだ特殊な事情も関係しているようだ。
「宮古島で生産されている宮古牛を取り巻く問題について知る必要があるでしょう。離島である宮古島は、本土や沖縄本島と異なった食肉加工事情があります。というのも、17世紀に薩摩藩の侵攻を受けて以後、農耕の立て直しに必要な牛や馬を食べないようにというお達しが、当時の琉球王国で出された過去があるのです。そのため離島である宮古島はいまだに牛肉食より豚肉食が中心になっています。
そんな宮古島ですが、あるときから食用牛肉を育てるようになります。それは、昭和の終わり頃に当時の農林水産省が畜産振興政策として、国産の食肉牛の飼育を推し進めたことがきっかけとなり、宮古島でも食用牛を育てるようになったからです。ただ、これまで豚肉を中心とした食文化だったため、宮古島は牛の食肉加工技術が未発達で、そのため子牛まで宮古島で育て、そこから成牛までの飼育や加工は沖縄本島で行うという流れが定着したのです。
しかし、その子牛の評判がよかったため、宮古島の畜産家たちは平成の頃に牛をブランド化して食肉加工まで行うことで、観光客にブランド牛を提供することを思いつきます。こうした経緯で、肉牛生産で重要度が増したのが今回話題の宮古食肉センターなのです」(同)
そんな宮古食肉センターで食用肉の加工を担っていたのが嘱託職員だった。
「人件費が安く済むという理由もあるでしょうが、豚肉文化が中心だったということもあり、食用牛の加工技術を持った人が島内にほとんどおらず、JA沖縄経由で食肉加工の資格を持った嘱託職員に来てもらっていたのだと思います。そのため、嘱託職員に頼りすぎる形で、後進育成を怠っていた側面も強かったのでしょう。
そして、悲劇はコロナ禍によってもたらされます。観光客が減って収益が下がったため、食肉センターは牛肉の加工を一手に担っていた嘱託職員に、これまで払っていた賞与を契約更新時にカットすることを提案。嘱託職員はこれに反発して契約更新を拒否したわけです。そして現在、コロナ禍が落ち着きを見せ観光客が戻り始めましたが、肝心の宮古牛を提供することができなくなってしまいました」(同)