日本中の学校が“ミニ東大”ばかりの社会は面白いか?
ちょうどこの「組織の多様性と社会の多様性とのパラドックス」という現象について、経営学の第一人者であり、紫綬褒章の受章者でもある沼上幹教授が著書の中で興味深い例え話を展開しているので、以下に引用します。
もし、世の中の企業が「集中」を心がけるのではなく、むしろ「多様性」を強調した分散型の投資を行っていくのだとすれば、どういうことが生じるのだろうか(中略)
たとえば電機メーカーは互いに類似した総合電機メーカーに「進化」し、(中略)大学は皆同様に総合大学化してミニ東大になる、というような具体例を思い浮かべてもらえばよい。 奇妙なことに、企業レベルで多様性を認める組織運営を行うと、産業レベルでは同質的な企業が生まれてきてしまう。
(日本経済新聞出版社『経営戦略の思考法』292-293P)
沼上氏は「経営戦略の基本原則である“選択と集中”と“多様性の重視”は矛盾した概念である」という文脈で、上記のように述べています。つまり、「多様な人材を抱える」ことは「戦略・方針の分散」につながり、経営戦略の基本原則でもある「選択と集中」を実践することが難しくなってしまうことを危惧しています。
沼上氏自身は、“社会全体の問題”というよりも“一企業の競争力”という点にフォーカスして上記のように述べていますが、この中の「全ての大学が同質化して“ミニ東大”になる」という例えからは、「社会全体が“金太郎アメ”的な無個性の組織で埋め尽くされてしまう」という現象をイメージしやすいのではないでしょうか?
私自身の考えでも、「地方のエネルギッシュな学生が集まる早稲田」「良い家柄の子女が集まる慶應」「品のある学生が集まる立教」「法曹系のトップを担う中央」「アーティストの卵が集まる東京芸大」など、(実際に所属している学生たちの傾向はさておき)各大学がそれぞれ持っている「学生像」のカラーに差があるからこそ、「勉強ができる学生が全員東大を目指す」という事態が避けられるのだと思います。
結果として、それぞれの大学が“東大より劣る大学”ではなく“東大とは違う大学”として、その存在意義を社会に認めさせることに成功しているのでしょう。
もちろん、「男子校」や「女子校」、あるいはクリスチャン系や仏教系などといった“特定の属性向け”の学校が存在することも、学生から見た選択肢を増やすのに一役買っているはずです。
「業界No.1」の組織のみが多様性のメリットを享受できる大学に限らず、ある業界で「人材の多様化」を進めても競争力を失わないのは「業界トップのリソースを保有している企業」だけです。
「大きい組織」は特定の分野にリソースを集中せずとも総合力で他社を圧倒できる分、「多様なスキルセットを持った人材」を背景とした「戦略・事業の多角化」で色々な領域に手を出す余裕があります。
逆を言えば、2位以下の企業は何らかの分野に絞った集中的な投資を行わなければ、上位企業の優位性を覆すことができません。
「特定分野に集中した投資」を行うためには、その分野に貢献できるスキルセットを持った人材を集中的に採用し、その他の社員を相対的に絞る必要があるので、必然的に「多様な人材を受け入れる」余裕はなくなります。
以上のような原理で、業界最大手以外の企業は「トップ企業と差別化するための戦略を考え、その戦略を支える人材を募集する」という行動をとります。
例として、読者にも利用経験のある方々が多いであろう「フィットネス業界」を例にとって見てみましょう。