当時はわれわれの判断で、日本側に対して攻撃をする国もないのだから、自衛のための戦争を含めて、一切の戦争を否定する形になっている。それにしても、独立回復後も日本がこの憲法を守っているとは思わなかった。

日本国憲法の「産みの親」といえるGHQケーディスの言葉だ。彼と親しかった外交官・山田久就の息子、山田俊雄氏に対して明言した。ケーディスらが作り、日本に押し付けた憲法制定から20年近く経過していた。

ケーディス氏(右)筆者提供

筆者も複数回ケーディス本人と長時間対談、憲法を作った経緯などを直接聞いた。

彼がもしいまでも生きているなら、「日本側に対して攻撃をする国もないのだから・・」という部分は再考することは間違いない。いま、確かに存在する中国の「潜在的な脅威」に関しては修正するだろう。

彼の表現の仕方、言葉の選び方、熱意から、1945年当時は日本の「民主化」と「非軍事化」を最優先にしたことが読み取れた。

筆者はケーディス以外にも、天皇を「象徴」としたプール海軍将校。また日本女性に選挙権を与えたり、女性らが結婚相手を自分で選べるようにするなど、それまでの封建的な日本にはなかった「女性の権利」を、新憲法利用で獲得させたべアテ・シロタ・ゴードン女史にも直接会って、長時間対談した。

ジェンダー法学の専門家、追手門学院大学 三成美保教授の発言。「いまは世界に遅れをとっているが、戦後しばらくは法的には極めて”ジェンダー平等の先進的な国”だった。大戦後、日本国憲法で、男女平等を規定、夫婦関係や教育の場で男女平等が語られるようになった。当時、欧州諸国では、家族法に男女差別が存在、世界的に画期的だった」その憲法の女性の権利条項を作ったのが、ベアテ女史。男女差別がまだ存在した本国の米国より進んでいる考えを実現させた。

少し立場が違うコロンビア大学のヒュー・ボートン教授にも長時間、興味深い話を聞いた。日本の降伏直前、連合国の殆どが「天皇を戦犯として処刑しろ」という大合唱だった。だが、ボートン博士は非常に賢かった。処刑は簡単、だがそうすると非常に強い日本民族がさらにまとまり、戦後統治が非常に難しくなる、天皇を生かして利用するという考えを思いつき、マッカーサー元帥に進言。そのまま受け入れられた。ある意味、天皇の「命の恩人」ともいえる日本研究者だった。