18世紀末には「スピーンハムランド体制」が広がってゆく。これはイングランド東部バークシャー州スピーンハムランドで始まったことから、そう呼ばれるようになった救済制度で、パンの価格によって支援提供額を決定する仕組みだ。当時、穀物の価格が上がり、生活困窮に苦しむ低所得層を支援するために始まった。一家を支えるのに十分な量のパンを買えないほどパンの値段が上がった場合、貧困税の中から収入の不足分を支援した。
雇用主にとっては、労働者に低賃金を与えても不足分は貧困税がカバーしてくれる、都合が良い体制だ。一方、こうした所得支援は貧困層の勤労意欲をそぐという意見もあり、貧困税を払う中高所得層にとっては不満の種だった。
19世紀初期までに産業革命が進み、北部の工業都市を中心に人口が急激に増加したことで、それぞれの教区が面倒を見る体制は維持が難しくなってきた。
ナポレオン戦争(1803-15年、ナポレオンが指揮するフランスとその打倒を目的とした対仏大同盟――英露オーストリア、プロイセンなどの列強――との戦い)後の不況によって、農業従事者や小規模なビジネス経営者の生活も大きな打撃を受けた。

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こうした動きの中、1832年、王立委員会が設置され、貧困法の改革に乗り出した。
これを受けて、1834年、新貧困法が成立する。新法の下、五体満足な貧困層に対する貧困税を使った支援は停止されることになった。自力で生活を維持できない貧困者は救貧院で働くことを奨励された。各教区は「貧困法組合」として再編された。ロンドンのサマーセットハウスには「貧困法部」が設置され、各地域の貧困対策を監督した。
救貧院の実態とは救貧院は、仕事がなく貧困状態にある人が労働の代わりに食事と寝床を得ることができる場所だ。どんな手順を踏んで作業者になるのだろうか。
まず、到着した最初の日、洋服をすべて脱ぐように言われ、救貧院管理者の監視の下でお風呂に入る。制服が与えられるため、外出の際にはすぐに救貧院にいる人だということが分かるようになっていた。もし家族と一緒だった場合、大人の男性・女性・子供に分けられ、それぞれ別々の場所で生活した。
仕事の内容は主として単純作業で、石を割る、電信線から麻を取り除く、骨を砕いて肥料を作る、大きな金属の爪(「スパイク」)を使って縄をほどいたりするなど。朝は6時から夜8時ごろまで、奴隷のように働かされていたとも言われている。
長時間勤務、制服の着用、家族の絆の断ち切りと言えば、監視付きの刑務所にいるようなものだ。個人としての尊厳をギリギリまで奪われた生活だったと言えよう。
公文書館には、新貧困法成立前後に作られたとみられる、救貧院の一場面を示すポスターが保管されている。
ポスターで一番目立つのが、上に書かれている文字だ。「新救貧法下、新たな救貧院はこうなっている。下の絵を見てほしい」
救貧院の広々とした部屋の中にいる人々の様子が見える。題字のすぐ下左側には「民生委員たちの命令による、救いがたい人々への処罰の様子」とあり、上部には、両手を後ろに縛られた3人が天井からつるされている。
上から順に、記載された文章を拾ってみる。
「新救貧法の委員会の命令によって、全ての貧民の勤務時間は午前4時から午後10時になった。救貧院の庭を片付け、掃除する時間として3時間、与えられる」
「ああ、ご主人様、御慈悲を。高齢で、病弱の私はそれほど一生懸命は働けません。どうか10分間休ませてください」
「休みだって、まったく!この怠け者の年寄りの盗人め。紳士になるためにここに来たと思っているのか。年寄りも若いのもここでは働くんだよ。働く以外に貧乏人に何ができる。さあ、この悪党よ、麻のところに行って働け」
「告知:反抗的な振る舞いや騒ぎを起こした、五体満足の貧民全員は裁判もなく頭を殴られ、その身を医者に売られた。政府の命令によって、だ」
「ご主人様、どうか憐れみをかけてくださるよう祈ります。中に入れてください、それでなければ何か救済策を与えてください。本当に飢餓寸前なんです」
「それなら出て行って、生活のために盗みをしたらどうだ。ここには入れないぞ。どこかへ行ってしまえ、このばいきんめ」
右端にいる、荷車の横にいる帽子をかぶった男性はこう言う。「お前、運搬車に何を入れてるんだ」。男は答える。「死んだばかりの幼児だよ。病院に連れて行って、医者に売るんだ。こんな荷物が週に1回はあるね」
左下では、きねを上げる男女がいる。「ここで麻を打つのは石を割るよりいやだ。ああ、神様、どうか御慈悲を」。「頭髪は剃られるし、シャツを着ることは許されない。西インド諸島からやってくる奴隷の話を聞くが、こっちよりはるかにいい」
桶を運ぶ男性がいる。桶には「貧民のための豆のスープ」とある。
下方にいる子供たちは涙をこぼしながら、作業を行っている。その上には、今にも貧民に一撃を与えそうな、山高帽を被った男性が立っている。
救貧院で人々は長時間労働を強いられたが、このポスターが描くように天井からつるされていたわけではない。このため、新救貧法に抗議する決起集会のために使われたのではないかと言われている。