僕ならどうする?

以上を考察した上で、シャムの双生児問題について、僕は一人の医師としてどう考え、行動するだろうか?

「正解なんて存在しない」という前提で今僕が言えるのは、

その選択の場面から逃げずにきちんと正面から向き合うことだけは忘れたくない

ということだ。

この場合ならまず、

ご両親やご家族と対話する

ことから始めたい。彼らが何を思っているのか、どんな風に子どもたちと接してきたのか、今の事態と今後のことについてどう感じ、どう考えているのか、などの思いをじっくりと聞き、信頼関係を築きながら一緒に答えを模索してゆくこと。これが第一歩だと思う。

そうした対話の中で答えの方向性が見つかれば良いだろう。

しかし、親にとってみればそんな状況は八方塞がりの地獄のようなものではないだろうか?自分の子供の一方を助けるために一方を殺す…その選択を周囲から迫られるのだから(その意味では、親という当事者に選択を託すのはやはり医師の責任逃れなのかもしれない)。

そう、どんなに対話してもおそらく答えは出ないだろう(もちろん、だからといって対話をしなくていいということではない。対話を通して信頼関係を築くことは何より重要な第一歩であると思う)。

では、どうするのか?

僕は一人の医師として、ここから逃げたくない。真摯に患者さん・ご家族と向き合いたい。いや、こういう問題から逃げずに向き合うことこそが、医師の仕事ではないかと思う。

だから多分こうするだろう。

多少事実をごまかしてでも自分が引き受ける。

具体的には、

「手術中にまた何か状況が変わって、やはりこの子の方が生存確率が高い、と分かることもありますので、あとは僕にお任せ下さい。」

などとご両親に説明し、でも現場ではサイコロを振って決めるかもしれない。術後は「この子のほうが血管の走行が…」などと事実をごまかして説明するのだろう。

…つまり医師として自分がこの事態を引き受ける、ということだ。

僕もこれまでの約20年の医師人生で、このように「多少事実をごまかしてでも自分が引き受け」たことが何度もある。その選択で結果が良かったことも悪かったこともある。その度に、僕はまるで自分が悪魔になったような悲痛な思いで涙を流す。

医師という仕事は、業の深い仕事だと思う。でも、医師という仕事はそういうものだ。もしそこから逃げるような存在なら、そんな価値のない存在は今すぐにでもAIに取って代わられていい。

そんな風に涙を流すこと、その覚悟を持ち続けること。それこそが医師の仕事だということだけは忘れないようにしたい、と僕はそう思っている。