主人公の隆治は考える。そして悩む。しかし、どんなに考えても悩んでも答えは出ない。

「親の希望ってあるのかな?」とも思ったが、「親に子どもを殺す選択を託すのは酷だ」と気づく。

体と心を震わせ、歯を食いしばって、泣きそうになりながら試験に立ち向かったが、結局隆治はありきたりでつまらない答えしか書けなかった。

試験後、後ろの女子学生は、やはり解答に苦慮したのかハンカチで目を押さえて泣いていた。

こんなシーンである。

当然だが、この試験に「正しい解答」はない。

そもそも、患者の命を救うのが医師である。「患者を殺す」を考えることに意味があるのだろうか?

いい機会なので、今回はこの試験問題に対しての僕なりの答えを考えてみたいと思う。

患者の選択権?

隆治は最初に「親の希望ってあるのかな?」と考えた。

これは今の医療業界の中で主流になっている考え方であり、至極まっとうな考えだろう。

僕も日々の診療では「患者の選択」を重視するように常に心がけている。

病気も怪我も、それは患者さん自身の人生の一部なのだから、そこも引き受けて人生を主体的に行きていってほしいと願うからである。

血圧や糖尿の薬を飲むのか、飲まないのか…

薬の前に食事や運動などの生活習慣などをどうするのか…

人生の最終段階で医療による管から栄養で生きるのか、最後まで口で食べ物を味わいたいのか…

これらを決定するのは患者さんの選択だ。だから僕は、この選択を最大限支援できるよう、日々患者さんやご家族との対話に努めている。

また、今は「がん」という生命に最も関わる病気でさえ、基本的に本人に告知することが通例になっている。

それは、生命の危機に陥ったときこそ「患者の選択」を重視すべき、という風に医療業界が変化してきたからだ。

患者の選択は医師の責任逃れ?

一方、ほんの30年ほど前まで、医師は患者に対し「がん告知」を殆ど行わなかった。

僕の母は32年前に胃がんで死んだのだが、母は医師からも家族からも「がん」と伝えられず、それでも最期は自分の死を悟りながら死んでいった。

そう、実は以前は「患者に自分の生命を終わりを告げるのは酷だ」というのが医療業界の常識だったのである。

たしかに、自分の人生の終わりを知るのは苦痛だろう。手塚治虫の漫画「ブッダ」にこんなシーンがあった。ブッダが預言者から「私はあなたが死ぬ時期を知っているがあなたは知りたいか?」と尋ねられる。ブッダは「そんな残酷なことはない。わたしは知りたくない。」と拒否するのである。

人類史上最大級の偉人であるブッダでさえ自分の運命を知りたくないのだ。我々一般人が「がん告知」を尋常の精神で受け入れられるはずもない。事実、がん告知を受けた後に自死を選ぶ方も少なくないのが現実だ。

そう考えると、かつて「がん告知」をしなかった時代の医師や家族は、患者の運命を知りつつも、その選択を本人に丸投げせず、ある程度「自分で引き受けてくれていた」と言えるのかもしれない。

実は「がん告知をしない」と言う場面は今でも残っている。小児がんの世界や、超高齢もしくは認知症などで判断能力が低下しているような場合では、本人に真実を伝えず医療者と家族だけでその運命を涙ながらに受け止めて行くことも多い。

医師が引き受ける?

同じく手塚治虫の漫画「ブラックジャック」にこんなシーンがあった。産まれてきた新生児が脳みそのない、いわゆる「無頭児(原作のまま表記、生存能力はほぼない)」だった。ブラックジャックは本当のことを母親に告げず「(赤ちゃんは)死んでいたよ。あきらめるんですな。」と言い、子供の生命を絶ってしまう。

ブラックジャックは「真実を本人に伝える」ことにもまして、「医師として自分が引き受ける」という道を選んだのではないだろうか。

そう考えると、今の医療の「特に理由がない限りがんは全例患者に告知する」という態度は、「自分で引き受けると言う態度を手放した医師の責任逃れ」、もっと言えば「患者への丸投げ」と言われても仕方ないのかもしれない。

もちろん、現場現場で事情は違うのだからどちらが正解というものではない。しかし、業界の空気で「基本的に全部こっちのやり方で行こう」と右往左往している医療業界の態度が、現場現場の事情に逐一真摯に対応できているか?と言うとそれは大いに疑問である。