政界特有の難病「先生病」とは

初当選の皆さんは公人として、望むか否かに関わらず「先生」と呼ばれる機会が増えることでしょう。先生という呼び方は教員や弁護士・医師など、一般に敬意をもって扱われる呼称ですが、それらに比べて圧倒的に勘違いを起こしやすいのが、政治家に対する「先生」です。

各所で先生、せんせい、センセイと持ち上げられ、いつしか自分を特別な存在と思ってしまう。私はこれを「先生病」と呼んでいます。

一度かかると完治するのは至難の業で、しかも始末の悪いことに本人みずから気付くことができるのは極めてまれです。多くの場合、本人だけが気づかない。だからこそ初当選を果たした皆さんには「鉄は熱いうちに打て」とばかりにこのタイミングで伝えたい、そう思うのです。

尾崎行雄が東京府会議員を経て衆議院議員に初当選し、師匠である福沢諭吉を訪ねた際のこと。福沢は得意満面の尾崎に対して驚きも褒めもせず、ある漢詩をしたためたと言います。

道楽発端称有志(道楽の発端 有志と称し) 馬鹿骨頂為議員(馬鹿の骨頂 議員となる)

およそ全ての政治家の方々にとって耳の痛い字句ではありますが、この時の教えが生涯続いたからこそ、尾崎は「憲政の父」と呼ばれるに至りました。さすがに私ごときが諭吉先生のように毒づくことは憚られますが、それでも「自分には関係ない」と笑い飛ばせる議員の方々は果たしてどれだけいらっしゃるだろうか。はなはだ疑問です。

私が個人的に縁ある議員の方々に、折にふれてお伝えしていることがあります。

「どうか、先生病にだけはかからないで」。

これを忘れた時に政治家という存在は尊大になり、時には秘書を罵倒し、またある時には官僚やメディアを恫喝し、最期は有権者にもそっぽを向かれるのです。最近もありました。

これはある意味、私たち有権者も「未必の共犯」かも知れません。政治家として育てているはずが、いつの間にか必要以上に持ち上げ、勘違いを誘発していないか。絶対的な権力者としてあげ奉ることなく、だからといってサンドバッグの如くストレスのはけ口にもしない。上にも下にも置かず同じ目線で活動できるように見守ることは、有権者いちばんの責任でもあります。