早逝した名レーサー、浮谷 東次郎の伝説とともに

筆者が尊敬するレーサーの1人に、浮谷 東次郎という1960年代のドライバーがいます。
まだ戦後日本のレース草創期と言える1965年8月、鈴鹿サーキットでの事故で若き命を散らしたものの、短い人生をがむしゃらに走り抜けるがごとき数々の伝説を残した人物です。
4輪のレーサーとしては基本的にトヨタ専属でしたが、プライベーターとしてトヨタ車以外にも乗り、レーシングコンストラクターの童夢を設立した林 みのる氏によるホンダS600改「カラス」や、ロータス26Rで活躍。
特に印象深いのは1965年7月、トヨタスポーツ800で挑んだ船橋サーキットでの全日本自動車クラブ選手権で、序盤の接触事故で最下位に落ちてからの凄まじい追い上げでトップを走る生沢 徹のホンダS600を捉え、ついに逆転優勝を果たしました。
直後に早逝したのが惜しまれたものの、どん底から這い上がる彼のあきらめない心や、「ヨタハチ」と通称されて長く愛されるトヨタスポーツ800の勇姿は、いつまでも胸に焼き付いて離れません。
原型は軽量ボディと空力効果の実験車

1950年代にクラウンやコロナの初代モデルを発売、本格的に量産乗用車メーカーとして軌道に乗ったトヨタでは、初代クラウンをベースにしたスペシャリティクーペのトヨペット スポーツX(1961年)など、将来の可能性を模索したスポーツモデルを試作していました。
1961年6月に発売された小型大衆車「パブリカ」も、あまりに簡素で市場からの反応は良くなかったものの、安価なスポーツカーのベース車としては格好の素材です。
軽量なフルモノコックボディをさらに軽量化、航空機設計の要素を取り入れた空気抵抗の少ないデザインとすれば、パワフルとまでいかないパブリカのエンジンでもさぞかし面白いクルマに…と、1962年の第9回全日本自動車ショーへ出展したのが「パブリカスポーツ」。
先端に丸目2灯式ヘッドライトを配した、いかにも空気抵抗が少なそうなボディに、なんと戦闘機のごとくフロントウィンドウだけ残し、残りのキャビン上半分がスライドするキャノピー(天蓋)を装備し、普通に開閉するドアがないという特異なスタイル。
そのままではフルモノコックボディだと開口部が大きすぎるうえ、軽量化のため素材はスチール製のままで薄板化したボディでは剛性が気になるものの、発泡ウレタンの充填でかえって剛性は高くなっていたと言われています。
開発にまつわるアレコレを総合すると、初代パブリカの開発主査であり、後には初代カローラも手掛けた長谷川 龍雄 氏が求めた実験車を、トヨタ車の生産や架装を手掛ける関東自動車(現・トヨタ東日本)が形にしたようです。
ただし1962年時点での出展車はあくまで将来における可能性を形にしてみたコンセプトカーに過ぎず、「市販予定はない」とされました。