自分の町に愛着を持たない人びとが、平和な町をつくることはできない。誇りを感じることができない平和などに、愛着を感じることはできない。
まず外部者が考えるべきは、その人々の誇るべき努力に「敬意」を払うことだ。
平和記念都市としての広島の「復興」は、苦難の連続だった。しかし一つ一つ成果が果たされたとき、人々は自分の町に誇りと自信を持つようになった。そして「復興」は進展を見せていった。
広島市民は、サヨク的な平和主義をイデオロギー的に信奉するようになったがゆえに、「平和記念都市」となったのではない。悪も受け入れ、被侵略国に降伏を勧めるような者になるために、「平和記念都市」をつくったのではない。
人間らしく生きていくための努力を重ね、よりよい平和を求める「復興」の過程を通じて、自分の町に「誇り」を抱くようになり、「平和記念都市」として完成していった。
今ウクライナ人に、ウクライナ人にとって全く受け入れられない「降伏」の「停戦」を説教することによって、ウクライナが平和な国に生まれ変わる、などと信じる者は、よほどのイデオロギー的な偏屈者か、単なるマウント好き老人だけだろう。
日本でマウントを取るために「停戦」の語を日本語で呪文のように唱えることを呼び掛ける記者会見を開いても、何も起こらない。
ウクライナの人たちにまず示すべきは、その誇り高い行動に対する敬意だ。
「停戦」マウント高齢者は、早くウクライナに行って、「停戦、停戦、停戦」と呪文を唱えながら、「俺はウクライナ人の誰も知らない本当のウクライナの平和を知っている、俺の説教を聞け」と主張する記者会見を開き、何が起こるかをしっかりと見てみるべきだろう。