広島市HPより

「平和記念都市」として広島が「復興」を果たす過程には、初代公選広島市長・濱井信三をはじめとする指導者たちの卓見と決意、そしてそこに暮らす人々の血みどろの努力があった。イデオロギー的な曇り眼鏡を取り除いて、敬意を持って見るべき歴史である。

安倍晋三首相と岸田文雄外相(当時)がホストになって、2016年にバラク・オバマ大統領が広島を訪問した際、広島市民は熱狂的なまでに歓迎した。オバマ大統領の車列を迎える人々であふれた沿道では、目に涙を浮かべる方もいるほどだった。それは、広島の「復興」の苦闘が、ついにアメリカの大統領にまで「敬意」を持って認められたからだ。

重要なのは、「敬意」である。

オバマ大統領は、広島の世界史に残る奇跡的な「復興」と、その背景にある人々の努力に、敬意を表した。アメリカの大統領として、広島訪問は簡単な判断ではなかった。しかしオバマ大統領は決断した。広島の人々は、その決断に大統領の広島に対する「敬意」を感じ取り、あらためて「敬意」で返答した。その光景が感動的だったのは、人間が人間を尊重し合って「敬意」を交わし合う気持ちのやり取りがあったからだ。

オバマ大統領が通った広島記念公園前の「平和大通り」(通称100メートル道路)は、濱井市長がマッカーサーにもかけあって実現した「平和記念都市建設法」の実施に伴って建設されたものだ。建設当時、「食料や住居や仕事をくれと頼んでいるのに、なんで道路なんか作るんだ」、という市民からの不評が相次いだ。濱井は、市長を4期務めたが、最初の2期の後に一度、復興計画の不人気さから落選も経験している。

その時に次のような噂が流れたのは、非常に有名なエピソードだ。「濱井の本心は、道路ではない、滑走路だ。将来アメリカに復讐を果たすためには、どうしても滑走路がいる。しかしその本心を今明らかにするわけにはいかない。お前、濱井の本心をわかってやれ。」というものである。

濱井市長は、東大法学部を卒業した秀才だったが、中央省庁での就職がうまくいかなかったため、生まれ育った地元で奉公しようと広島市役所に勤め始めた異色の経歴の持ち主であった。それが原爆によって市長をはじめとする市役所の上役が全員死亡してしまったがゆえに、43歳で市長に立候補すべきことを周囲に説得されたという人物である。地元出身者であったがゆえに、美しき誤解も生まれることもあり、奇跡の「復興」を主導することができた。

広島を訪れる外国人は、よく「なぜ広島の人々はアメリカ人を憎んでいないのか」と聞く。JICA事業や外務省事業などを通じて、頻繁にそうした場面に遭遇する私は、いつも、「なぜあなたは広島市民はもうアメリカ人を憎んでいないと仮定するのか」と聞き直す。

人間の心の中には、複雑で多様な思いがある。ステレオタイプにもとづいた決めつけは、タブーである。イデオロギー的な決めつけは、特に最悪である。

苦難にもかかわらず、広島の人々は「平和記念都市」としての「復興」に希望を抱いて努力してきた、ということだ。今、それを人々は「誇り」に思っている。

果たせなかったアメリカ人への「復讐」は、不可能と思われた「復興」を果たすことによって、新しい次元へと昇華していった。広島は、降伏して敗戦したことをサヨク的なイデオロギーで説明するために、「平和記念都市」になったのではない。むしろ奇跡の復興という形で逆転「勝利」を得ることによって、「平和記念都市」として完成していった。