朝日新聞の記事にしても、高市大臣がアーキビストの存在意義を認めていないかのような印象操作をしているが、彼らは正式で最終的文書が作成されたあとで、それらをどのように整理し、どのようなものを残し、あるいは捨て、残したものについてはカタログを作り、公開のために保存し、分類するかを決めるのであって、作成過程には立ち入らない。欧米ではかなりの専門職となっていて博士号をもつ人が多い。
つまり、「行政文書」は職員が作成し、保存するもので、完成前の草稿や下書きやたたき台やメモを含む。一方、公文書はそのなかの正式で最終的なものであって、アーキビストがその中から取捨選択し、公開に向けて整理し、保存するものだ。だから、「行政文書」では、基本的にアーキビストの出番はない。朝日新聞の記事は、まったくの牽強付会だということがわかる。
さて、今回問題になった「行政文書」なるものは、察するに、高市大臣のレクチャー(職員の大臣に対する説明)に関する、たたき台や下書きのようなものだったのだろう。また、日付もなく、作成者も示されていないものが混じっていることから、作成過程のものであって、最終的で正式な文書でなかったことはあきらかだ。なにより、高市大臣は記憶にないといっている。内容について本人に確認した形跡もない。
だから、高市大臣は「捏造」だ、「ありもしないもの」だ、といったのだ。彼女からすればそう表現することになるだろう。
ところが、立憲民主党の小西ひろゆき議員やこの問題を報じたマスコミは、作成中の「行政文書」を最終的で正式な「公文書」と意図的に混同し、「捏造」を「公文書」の改竄や書き換えと、これまた意図的にとった。彼らにとっては、そうしたほうが問題が先鋭化するからだ。マスコミにとっても、話しが、面白くなり「売れる記事」になる。
彼らはこう追及する。高市大臣は自分のあやふやな記憶をもとに、公文書に書かれていることを「捏造だ」「ありもしないものだ」と嘘をいっている。その証拠に、文書作成に関わった職員に聞き取り調査したところ「捏造したという認識はない」と口を揃えていっているではないか。
そして、職員たちが「捏造したという認識はない」といっている以上、「行政文書」は「捏造」されておらず、それらを「捏造」だといった高市大臣は嘘をついている。都合が悪いので逃げているだけだ。そして、「捏造でなかったら、大臣も議員も辞職する」といったのだから高市大臣は約束通り、大臣も議員も辞職すべきだ。
しかしながら、前に述べたように、高市大臣の発言と職員の証言は矛盾しない。つまり、高市大臣からすれば、本人に記憶がなく、内容確認もされていない、叩き台や下書きは、「捏造」であり「ありもしないことを書いたもの」になる。
一方、作成した職員たちは、最終的に完成し、正式のものになった「公文書」を意図的に改竄したり、手を加えたりしたわけではないので、「捏造したという認識はない」ということになる。矛盾はしていない。
少し考えればわかりそうだが、小西議員はじめ、高市大臣糾弾に立ち、クビを狙っている立憲民主党の議員たちは「わかりたくない」のだ。
小西議員は、3月20日参議院予算委員会の質疑で総務省の今川拓郎官房長に「捏造しなかったのですね」という同じ質問を6回もした。今井氏は「捏造したという認識はないといっている」と同じ回答を6回繰り返した。「捏造はしなかった」と今川氏にいわせられれば、「捏造だ」という高市大臣の発言と真正面から矛盾する。
「捏造という認識はなかった」では、認識はなかったかもしれないが、「捏造」に類することはあった可能性はある、で逃げられてしまう。結局、今川氏は最後まで「捏造という認識はなかった」で通してしまった。
実に不毛なやりとりだった。国会開催にかかる費用はかなりのものだが、巨額の血税を浪費した。
それより深刻なのは、文書管理の杜撰さと、このような危険な文書を政治利用するとわかっている野党議員に渡す職員が総務省にいるということだ。
前にも述べたように、正式な最終版になるまえの、「行政文書」を残すことは危険なことだ。つまり、今回のように、実際にはレクを受けていないのに、受けたことを想定した下書きやたたき台が残ると、レクはあった、それを大臣は受けた、ということになってしまう。それを政治利用される可能性がある。これらの「行政文書」はこの意味で「取り扱い厳重注意」なのだ。
「行政文書」が紙ベースならば、これらの正式な公文書を作成する過程で作られた下書きやたたき台は、モノとして残り、邪魔になるので、破棄されるだろう。だが、電子テキストならば、いちいち削除しないかぎり、文書として、あるいは最終版の前のヴァージョンとして、残ったりするだろう。